中国の本質とは何か (第2回)・・・「一族イズム」


(前回の続き)


 そして、A教授の家族も石平氏のその他の多くの親族も、この汚職を問題に感じる事はなく、喜んでいるのである。そして、これはほとんどの中国人の思考様式を表しているといってもよいのである。当然、これでは社会全体の腐敗がなくなる事はない。中国人が全員、社会の腐敗、汚職を問題視しそれを改善しようとしても、各々の所属する親族だけは別なのである。親族の利益になるためなら、社会から収奪することは正当なことであり善なのである。公の倫理や規範、規則や法律は無視してもよいのであり、むしろ、そうしないことの方が親族の中では悪となるのである。そして、本当に信頼しあえる人間関係というものは、この親族の中において存在するといってよい。この内部においては嘘をついてはならず、騙してはならない。お互いに助け合い、思いやりを持って忠義を尽くさなくてはならないのである。石平氏はこれを「一族イズム」と呼んでいる。

 ここで林語堂(中国の思想家)は、中国人が個人主義の民族であると指摘する。彼の言う中国人の「個人主義」というのは、要するに中国人の個人個人が社会や社会の公益に無関心であるという意味合いである。しかし中国人の「個人主義」は決して、個人の自由や権利を大事にする欧米流の個人主義でもない。中国人は社会や社会の公益に無関心である一方、個人の自由と権利についても無頓着である。結局中国人は、自分たちの家族のことのみに関心を向け、自分たち一族の利益だけを大事にして、そして家族に忠誠を尽くすのである。林語堂はそれをさして、 「肥大した利己心」という。

 つまり中国人の「利己心」は自分自身1人に対する「利己心」であるよりも、まさに家族に対する利己心、家族のための利己心なのである。このような「利己心」の下では、中国人は社会の公益などに対して無関心である一方、自分たち家族や一族の利益だけを大事にする。そうなると、家族や一族の利益のために社会の公益を損なっても構わないと言うのは当然、中国人の行動原理となるのである。

 これに関し、林語堂は文学者らしい表現で次のように指摘している。 「 (中国人の)家族はその友人と共に鉄壁を築き上げ、内に対しては最大限の互恵主義を発揮し、外の世界に対しては冷淡な態度をもって対応しているのである。その結果、家族は堅固な城壁に囲まれた砦となり、外の世界のものはすべて合法的な略奪物の対象となっている」

 林語堂はここでは実は、中国人の独特の家族観の本質的側面を指摘してみせた。中国人は家族の中ではいわば「互恵主義 」を発揮して互いに助け合うのだが、いったん家族という「城壁」から出てしまうと、行動原理も考え方もまったく別なのである。家族以外の社会は中国人にとって助け合いの世界でもなければ、互恵主義の適用される世界でもない。外部の世界、つまり社会は所詮、個々の家族にとっての「略奪物の対象」なのである。

 おそらく世界のどこでも、家族を大事にし、家族間で助け合うというのは普遍的な行動原理であることから、中国人だけがそうであるわけではない。しかし中国人の場合が特別なのは、家族を大事にして家族間で助け合うような精神が、社会全体に拡大していかないことだ。このような精神はあくまでも「城壁に囲まれた砦」としての家族、あるいは一族のみに限定されているものである。そして中国人は、家族の内輪では互いに助け合いながらも、対外的にはむしろ社会を「略奪物の対象」だとみなして、社会に対する略奪をほしいままにするのである。中国社会のこのような独特の家族中心主義は、要するに「一族イズム」そのものである。実はそれこそが林語堂が指摘したところの、中国人の家族観の異質さの所在であり、中国流の家族のあり方の歪みである。(石平 著「中国人の善と悪はなぜ逆さまか」42~44頁)

 この親族集団は、同じ祖先を持つ大きな集団へと発展する場合がある。それが宗族と呼ばれているものである。この宗族こそが一族イズムの源流であり、中国を理解するための核となる、ということである。宗族とは一言で言えば、同じ先祖を共有する父系同族集団のことである。宗族は近代以前の数千年間、中国の基礎社会、特に農村社会に根を下ろして中国社会を形作ってきた。数百年の時を経て形成されてきた宗族は数千人から数万人の大きな組織になる場合もある。その中で宗族の族長が選出され、さらに様々な役職が決められる。宗族の「祭祀」が開催され「族譜」が編纂される。 一族の規律である族規が制定される場合もある。それに反したものは処罰される-司法の役割も持っている。宗族の財産の管理、教育機関の設立と運営、病人や老人、障害者への福祉サービスといったものまで宗族の中で行われる。いわば小国家ともいうべきものなのである。特に教育においては宗族の中から科挙試験合格者を出すことが大きな目標である。

 このような宗族が中国で生まれてきた理由は大きく3つあるという。 1つは財産が子どもに均等に相続される、 2つ目は祖先崇拝の伝統、そして3つ目は国家の頼りなさである。中国という国においては昔から、国家は人民にとって遠いところにあって頼りにならない存在であった。秦の始皇帝以来、中国大陸を統治するのは中央集権制の国家であり、国家権力が及ぶ範囲は県中心の町の中でしかなく、ほとんどの農村部には法の統治も行政サービスもいっさい届かない。それなのに税金だけは取られるのである。人々にとっては宗族は身近にあって頼れる存在であるが、収奪だけをする国家はむしろ、関わりたくないような厄介なものである。人々の精神的帰依と忠誠心の対象は結局、祖先崇拝と血縁で結ばれていて、救済と保護をしてくれる宗族ということになる。国家というものに愛着心や忠誠心を持つものは誰もいない。

 このような宗族中心の社会生活が何百年も続くと、そこから生まれてくる中国人共通の社会意識とはどのようなものになるか。それは、宗族に対しては強い帰属感や忠誠心を持つ一方、宗族の外にある社会と国家、つまり宗族以外の公に対しては全く無関心であり、それを自分たちの生きる宗族とは無関係な世界だと思ってしまうというものであろう。そして、同じ宗族の中では人々の仲間意識、連帯意識が強まる反面、宗族以外の世界をまさに「他所の世界」だと認識し、 「宗族の中」と「宗族以外の世界」に対する人々の道徳意識はやはり別のものとなっていくのである。

 つまり宗族の中では、人々は助け合いの精神を発揮してお互いのことを思いやり、和を保つことで集団の団結を守っていくのだが、宗族以外の外の世界は助け合いや思いやりの対象とはならない。宗族の中で人々は族規にある理念とルールに従って「善良なる族人」となるよう努めるのだが、宗族の世界から一歩でも出てしまうと、その行動原理も道徳観念も全く変わってしまうのである。・・・このようにして、宗族制度の長い歴史の中で、 一族のために公の利益を無視したり、平気で損なったりすることが中国人の伝統的倫理観として形づくられてきたわけである。(石平 著「中国人の善と悪はなぜ逆さまか」93~95頁)

 しかし、これは社会や公に対して全く無関心であり、何ら知識を持たないとは限らないように見える。特に現代においてはそうではないかと思うのだが、このA教授のように深い知識を持ち、社会全体のことを考えられる人もいるわけである。ところが、このA教授の娘夫婦のエピソードのように自分の身内が腐敗に手を染めても、そのことを何ら問題視せず、まるで今までの腐敗問題への取り組みがなかったかのように振る舞うことができるのである。まさにこれは日本人には理解しがたいことではないだろうか。石平氏の感覚は日本人に近いのである。私はこれをある種の二重人格性と考えているのだが、この問題も後でまた取り上げたいと思う。

 中国の腐敗、汚職問題の根本には一族イズムがあり、それは日本人の想像をはるかに超える巨大なスケールなのである。 1つの例として中国共産党元政治局常務委員の周永康が挙げられている。周は1998年に国土資源部長に抜擢されて以来、四川省共産党委員会書記、共産党政治局委員、政治局常務委員、共産党政法委員会書記として中国の司法、警察、情報部門を統括する立場にあった。そして2012年に引退するまでの14年間その掌中の権力を利用し、親族や部下たちとグルになって収賄三昧の日々を送った。 14年に摘発されたとき、周永康とその周辺から差し押さえられた資産は総計で約1兆4,900億円相当である。日本の例を取ってみれば田中角栄のロッキード事件での賄賂は5億円である。周永康から見れば田中角栄の賄賂額ははした金に過ぎないのである。そして、中国の1つの特徴はこのような汚職は妻や子供たちを含めた家族ぐるみのものだということである。

 一族イズムとは親族や宗族の中においてのみ適用されると論じられてきたが、実は社会全体と親族との間に中間的な性質を持つグループやサークルが形成される場合もある。結局、一族イズムの延長であると考えられるのだが、それは汚職などをしている関係者全体が1つの社会集団を形成するような場合である。周永康の場合はその社会集団ともいえるものは300人以上であり、親族以外にも元秘書、元部下、元ボディガードまで含まれている。つまり、汚職という共通の利益目的の集団内では親族に準ずるような信頼関係が結ばれているといえるのだろう。歴史的に見れば、中国の歴史を大きく動かすこともある宗教秘密結社などもこの中に入るのかもしれない。

 こうして私の疑問、完全に万人が万人に対し自分だけを肯定し、他者を無視してしまえばその社会は成り立たない-しかし中国社会は存続し続けている。これは必ずどこかで信頼しあえる人間関係が存在しなければならない-それは何なのか、という問いへの答えを得ることができた。それは一族イズムによって成り立つ親族、宗族、それに準ずる共通利益集団といったものである。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

2019年08月19日 11:36
記事の執筆ご苦労様です。

当方のメールへの丁寧なお返事をいただいておりましたが、今回の記事に対するコメントとしてお礼をお書きしたく、第二回までお待ちしていたため遅くなり失礼いたしました。

今回の記事につきましても中国の民族文化に対する洞察として、たいへん理論的でわかりやすいので、部分引用ではなくリンク先引用の形で他の方に紹介させていただきたいと思っております。

これからもよろしくお願いいたします。
ひろびろ
2019年08月19日 17:25
 石平さんの書籍を通した中国社会の摩訶不思議なメカニズムの解明読み応えありました。中国の歴史は(最近だんだん増えて)4千年ですか(韓国、朝鮮は5千年らしいけれど)、易姓革命などと天が差配する王朝勃興と云ってみたって実際の中身は民族の交代の連続。そりゃ追われて海外へ逃げて華僑を名乗ります。そういう厳しい現実の中にあって信頼出来るものは身内の絆だったんでしょうね。

 読んでて客家を想像しました。ここでは石平さんの一族が客家とは書かれてないけれど、何かの本で読んだ客家の住まい、階層を重ねた円形の建物。他を拒絶し眷属のみまとまって暮らす様子、客家は字の如くお客さん、他人集団だからよそ者。中国のユダヤとも呼ばれるそうで、そうした境遇で生き残るには一族の団結を強めるしかないのでしょう。

 そういう異質な民族を無配慮に受け容れるのは御免。日本の中に入り込めば異質集団となってトラブルのもと。既に政治に入り込もうとする中国系日本人もいるし、外国人参政権などを与えたら・・イヤァ考えたくもない。譲って良い人ぶるのは止しましょう。混乱、混迷、後悔がやって来ます。
2019年08月19日 19:13
ヘイジさんへ

コメントありがとうございます。中国の民族文化について考えようと思ったのは、日比野庵でのヘイジさんのコメントに触発されたところが大きいです。書くのが遅いので不定期になりますが、中国関係の考察を続けたいと思っています。よろしくお願いします。
2019年08月19日 19:18
ひろびろさんへ

石平氏の著作は元中国人ならではで、日本人の研究者ではなかなか理解するのが難しいところまで掘り下げています。日本人とはあまりにもかけ離れた民族です。異文化共生などと言う美辞麗句は、その本質をよく理解した上で使うべきでしょう。と言うより理解されるのがまずいのでこれらの問題はスルーされていますね。

次回は宗族間の闘争について取り上げたいと思います。なんというか文明国とは思えません-よくあるアフリカでの部族闘争のような感じですね。誰かアメリカ人だったかな「もし、日本がなければアジアはアフリカと同じだ」というのもわかる気がします。

コメントありがとうございました。