中国の本質とは何か (第3回)・・・恐るべき闘争世界


(前回の続き)

 中国の歴史というと大体は皇帝とその王朝の歴史を扱っている。それはもちろん重要なことであるのだが、どうしても一般民衆はどのようなものであるのか、ということが今ひとつ分からなかった。それは現代でもそうである。中国共産党による一党独裁により、一般民衆は抑圧され、搾取されている。歴史的に民主主義があった事は1度もないし、現代では専制政治はさらに強まっているとさえいえる。 1989年の天安門における民主化運動を壊滅させた弾圧事件は、30年経った今再び取り上げられているが、それではあの時もし、民主化が進んでいたとしたら中国はどうなっていたのだろうか?このような問題を取り上げるとき、どうしても一般民衆がどのようなものであるのか分からないと考える事はできないだろう。左翼思想の流入により、われわれは知らず知らずのうちに支配し抑圧する側は悪であり、抑圧されている弱い立場の民衆は善であるかのような洗脳がなされてきた。中国の場合も共産党に抑圧されている民衆の側は弱い立場であり、善であるかのような感覚を持ってしまわないだろうか。

 ここでは中国における一般的に本当に信頼しあえる人間関係がどのようなものであるのか-ということに焦点をあて、その人間関係のグループなり組織がどのような性格を持つのか、ということを問題にしていきたい。すなわち親族や宗族、それに準ずる共通利益集団の性格である。今まで一族イズムの性格を検討してきたが、この特異性を端的に表している現象が宗族の伝統となっている「械闘」なのだと石平氏は述べている。械闘とは民間の社会集団が別の社会集団との間で利害の衝突やその他の対立が生じた場合、それを法的手段によって解決するのではなく、武器を用いた武力闘争によって決着をつけることである。械闘はほとんど宗族上で行われているから「宗族械闘」とも呼ばれる。

 その典型的なパターンは、次のようなものである。どこかの宗族と隣接する宗族との間で土地や墓地をめぐる紛争が起きる。あるいは何かの偶発的な事件がきっかけで紛争が起きる。その際に、一族の人々を動員して集団的戦闘態勢を整えた上で、その隣接する宗族の村々を襲ったり、隣接する宗族と殺し合いの合戦を展開したりするのである。

 その際、本来は農民である宗族の戦闘集団が武器として主に使うのは正規の兵器ではなく、日常の農作業に使われる鍬や鋤や鎌や天秤棒などの農業器械である。だから、彼らの行う戦闘行為は「械闘」と呼ばれるのである。

 もちろん農業器械を使った械闘であっても、鍬や鋤や鎌や天秤棒などは使い方によって立派な殺人道具にはなるし、械闘が多発するような地域では、一 部の宗族は本気になって武装化するから、刀剣や鉄砲などの本物の兵器を械闘に用いることもある。その結果、宗族械闘はほとんど例外なく本物の殺し合いとなって多くの死傷者を出すのである。

 時には、戦闘員間の殺し合いだけでなく、戦闘に勝った宗族が相手の宗族の非戦闘員に対する虐殺を行うこともあるから、宗族械闘は残酷なものである。

(石平 著「中国人の善と悪はなぜ逆さまか」98、99頁)

 中国では数千年来にわたり、このような小国家ともいうべき宗族が無数に存在し、一族イズムに基づいて行動している。そして宗族間には紛争が絶えず生じているが、その解決のために国家は役に立たない。その時の王朝が治安を維持しようとしても、それだけの力はなく、また宗族も国の治安維持機構や法律を一切頼らないのである。宗族間で解決のための話し合いが行われることもあるが、それが決裂すると械闘になるのである。しかも、戦時国際法のように宗族間で一定のルールがあるのである。例えば戦闘は宗族で組織された集団の間で行い、個人では行わない。戦闘が終わって怪我人が病院に収容されても、その病院では戦闘は行わない。この械闘は第三者が見物することも可能で、 白いシャツを着て傘を脇の下に挟んでおくと第三者であることの標識となり、襲われることがないというのである。

 宗族間での対立は非常に長期にわたる場合もある。例えば宗族Aと宗族Bは数百年間対立し、しばしば械闘を起こしている。最初の対立の原因が何だったのかはもう忘れ去られてしまっているが、その対立関係だけは残る。そして、ささいなことをきっかけに対立が激化し、話し合いもむなしく開戦になるのである。宗族Aは宗族Bの中心になっている村を襲おうとするが、防備が固くその周辺にある同じ宗族Bの村を急襲し、老人や婦女子を虐殺する。宗族Bはその報復に武器を調達し、あらかじめ官憲に賄賂を渡し見て見ぬふりをするようにしておく。そして宗族Bは宗族Aを襲い数百人を虐殺する。生き残った人はその土地から逃げ、別の場所で生活するのである。数百人規模の死傷者というのはそれほど多いわけではないようであるが、少数の死傷者の械闘というのはかなり頻繁に起こっているようである。そして驚くべきことに、この械闘は現代でも続いているのである。

 その宗族で一旦、械闘を起こすと決められると不参加は許されない。それに参加することは族人の青壮年の当然なる義務になるのである。参加を拒むと宗族全体から非難を浴び、処罰や経済制裁を受けることになる。参加しなければならない年齢制限は宗族によって異なる。大半の族人達は自分達は一体何のために械闘をやらなければならないのかよく分かっていないが、別にわかろうともしない。械闘に参加すると宗族から手当が支給され、その期間中はただで飲み食いすることができる。気分的には一種のお祭り状態である。殺し合いをお祭り気分でするとしたら、日本人の常識的感覚をはるかに超えているだろう。械闘中に死者が出た場合、戦闘終了後にその遺骸は丁重に回収され、盛大なお葬式が執り行われる。戦死者の遺族には見舞金が支払われ、未成人の子弟は宗族によって扶養されることになる。負傷者の医療費は宗族によって負担され、負傷者は仕事に戻れるまで生活費は宗族から支給される。これら財源は宗族内の各家族の共同負担となり、各家族は経済力に応じて分担金を徴収される。分担金を上納することを拒否することは許されないのである。

 日本人の常識からすれば、このような戦闘が起これば当然警察が駆けつける。警察は何をやっているのか、と思われるだろう。ところがこの時、戦った宗族同士が団結して警察の捜査を妨害するのである。つまり、お互いに戦闘など起こっていない、相手からの攻撃で負傷者が出ているわけではない、と警察に主張するのである。特に主導的な役割を果たしたボスや幹部を守る事は重要である。そのため宗族は械闘立案、実行の真相を隠蔽し、ときには幹部の身代わりになって、一般の族人を本人の同意を得て首謀者に仕立て上げるのである。つまり、警察-国家機構を相手にしないというのは宗族全体の共通認識なのである。

 とにかく宗族というのは実に身勝手なエゴイズム集団である。彼らの眼中にあるのは自分たちの宗族の利益だけであって、公共の秩序を守る意識も他の宗族の権利を尊重する意識もさらさらない。彼らにとっては、他所の宗族は単なる強奪の対象であり、潰すべき敵なのである。そして相手から何かを奪うためには血みどろの死闘も辞さない。内輪の中では譲り合いや助け合いを美徳とする宗族が、いったん外に向かうと、狼のような恐ろしい存在となるのである。(石平 著「中国人の善と悪はなぜ逆さまか」103頁)

 よく報道で、アフリカの部族抗争で多数の犠牲者が出て数万人単位の難民が生じたというニュースを聞くことがある。それと同じようなことが中国においては長い間、頻繁に起こっているということである。しかし、マスメディアがこのような報道をしたり、テレビ番組で取り上げたりすることは全くなかったように思われる。もちろん、これは中国共産党に忖度したものであるだろう。

 これまでの考察から、中国にもし民主主義が導入されたらどうなるか、という問題をある程度検討することができるように思われる。アメリカ人は民主主義を導入しようとするとき、その場所に投票箱を持ち込めば簡単にできるように考えていると、批判されることがある。 まさに中国の場合はこれが当てはまるだろう。

 中国に欧米や日本のような議会制民主主義が導入されたと仮定してみよう。ある地区ごとに一定の議員を選挙によって選出する。 例えば議員の定数を10人だとしよう。立候補者をどのように設定するかは大きな問題であるが、中国の場合はさらに特殊な事情が関わってくる。その地区に100の宗族が存在していたとする。それぞれの宗族は自分のところから議員を選出できなければ、選挙など無意味である。いや無意味などころか、対立する他の宗族から議員が選出されれば事態は悪化していく恐れもある。例えば、100の宗族から一人ずつ立候補者を出せたとする。そうなれば単純に考えて 有権者が多い・・・すなわち大規模な宗族から当選することになる。有権者が多いトップ10の宗族が有利になるのである。当選した議員はその地区全体の事よりも、自らの宗族の利益を優先して活動する。これは少数派の宗族が黙って受け入れられる事態ではない。

 さらに、当落線上の宗族では選挙管理委員会の買収合戦が起こるかもしれない 。つまり、賄賂によって票を操作してもらうのである。選挙管理委員は人気の職種になるかもしれない。好きなだけ賄賂がもらえるのである。こうして不正した、不正しないで宗族間の争いがまた勃発して、本当の械闘につながるかもしれない。収拾のつかない事態になるのは目に見えているように思うのである。投票箱を持ち込めば民主主義になるというのは全くの幻想に過ぎないのである。



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この記事へのコメント

ひろびろ
2019年09月06日 17:29
 「宗族」「械闘」なんて言葉があったんですね。大括りに俯瞰してみる事も大事だけれど虫の眼で見る事も大事だと、石平さんならではの、中国に育った人ならではの記述ですね。

 「公共の秩序を守る意識も他の宗族の権利を尊重する意識もさらさらない」人間は多かれ少なかれこうした傾向は持つんでしょうが、現代においてもそれが一族結束の大前提、成る程、公共のなどと云う価値観は唾棄すべきものだと。

 あのデカい国でそうした目先の利益優先の争いが行われているんでは日本人の考える民主主義なんてものは「なにそれ美味しいのか」状態なんでしょうね。群雄割拠、国千々に乱れ新しい王朝が勃興しやがて倒されの繰り返し。強権で統一しなければまとまらない。って事中国首脳も判っているんですね。

 チベット、ウイグル、その他欲張って分捕らなきゃ良いのに抱えるから内部からの反逆が恐い。だから過度に押さえ込んで民族淘汰を図る。あの情け容赦のなさは元々の民族性だとしても、非道すぎると思ったけれど自分達の蒔いた種におびえても居るんだ。たまたま隣にあっただけの国や民族なのに温和しかったものだから今蹂躙されている。非道い話です。

 だけど種族や民族間の小さな争いなんてのは文中にある様に現在でも行われている事、文明人の被りものを引っ剥がしてみれば少し前までみんなやってた事で、ユーゴスラビア紛争において民族、宗教間の殺戮、レイプ、断種、憎悪、目撃したばかり。

 サルの群れ同士の争い、負けたグループのサルの子は殺されすると雌は発情して新しいオスを受け容れる。読んでてそんなテレビで見たシーンが浮かんできてしまいました。そこ迄は発想の飛ばし過ぎかも知れないけれど、生物としての本質は人間も変わらないように思えます。

 で当然人間は野生とは違うわけだから住み分けてルールを作り無駄な殺戮はしないようにしてるんでしょうけれど、みんなが同じレベルで暮らしてるわけじゃないから訳の判らない奴も居る。話の通じない国もある。そういう混沌はこれからも無くなりそうにない。

 そういう前提で我々は自分の国を固める。石平さんの話の先にあるのはそう云う事なんだろうと思いながら読んでました。アフリカなんかでも投資が入って、豊かになって、国家間の差が出てくれば矢っ張り紛争は絶えない。

 積み上げて豊かになっていく過程を飛ばし援助でいきなり近代的になってしまうとどうしても歪みが出て、勘違いもあって矢張り争いは絶えないんでしょう。一応文明人の範疇の中国人でも、中国でもそんな有様なんだからアフリカは鬼門。矢張り野におけレンゲ草の方が良いのにと思っちゃ傲慢ですかね。

 ・・投票箱を持ち込めば民主主義になるというのは全くの幻想に過ぎないのである・・そうでしょう。厄介な世界になっていくんだろうなぁと、凹みます。石平さんは帰化して日本人になったんですね。この人の叡智、弛緩して危ない日本のシステムのどこかに組み込んで活躍していただきたい。こういう帰化なら歓迎です。

2019年09月06日 22:11
ひろびろさんへ

 日本の10倍以上も人口のある大国が 、あのような目先の利益しか考えない無数の集団の争いによって成り立っている、というのはまさに震撼すべきことでしょう。

 天命思想というのは、まさにこのような国で人民をまとめるには必要なものだったのでしょう。それを証明するためには、異民族を征服し続けなければならない。チベットやウイグルの問題は、このような中華思想によっています。それが出来ないとまたバラバラな混乱に陥ってしまう。その両極を行ったり来たりしている、という歴史です。

 まったく厄介な話ですが、それだけ日本が良い国だということを実感しますね。このような認識は日本だけでなく、アメリカやヨーロッパなどにも広めていかなくてはならないでしょう。そのような人が多く出てくることを期待したいです。

 本当に石平さんにはこれからの活躍を期待したいですし、このような人が帰化するなら歓迎ですね。 もっともこのような人は少数派であり、そうでない人の方が多いでしょうから本当に考えなくてはなりません。このような仕事に携わる官僚にも、反日左翼が多数いるでしょうからね。そこをなんとかしていかなくてはなりません。

 コメントをありがとうございました。