戦争より恐ろしい共産党のテローソ連の大テロル


 前回のブログでナチスのホロコーストと比較する意味で1937年、38年のソ連の大テロルを取り上げたが、ここでは以前論文に発表した内容を一部転載することで詳しく論じていきたい。共産党のテロはナチスのホロコーストと違い非常に期間が長く、規模も巨大であり、実に複雑で多様なのである。ロシア革命初期のレーニン時代のテロとスターリンが権力を握った時代のテロとはかなり異なっている。ソ連以外の共産党のテロもそれぞれ独自の形態を持っている。それをすべて説明していると膨大な叙述が必要になって来るので、ここでは代表的なスターリン時代の大テロルに絞って説明してみたい。

大テロルの様相と問題点

 まず、大テロルの事例を取り上げることにしたい。これは大テロルによって、人生を断ち切られた人の簡略な物語であるが、それがどのような状況で、どのような経過をたどって起こったのかを知ることは有用である。そのことは本人だけでなく、家族、友人、知人にどのような影響を及ぼすかということも重要である。これはこの時期の70万人といわれる犠牲者のたった1人の事例である。そしてこのようなことは、この時期以前も、以後も規模こそ小さくなったが決してなくなることはなかったのである。そしてこのテロルは、レーニン時代のテロルとその形態、性質が異なったものになっていることにも注目したい。レーニン時代のテロルとスターリン時代のテロルはどのような本質的な異同があるのだろうか。それは、レーニン時代のテロルがイデオロギーの敵、すなわちイデオロギーの外部に向かって放たれたものであるのに対し、スターリン時代のテロルはそのようなはっきりとしたイデオロギーの敵に対してではなく、イデオロギー体制への内部に向かって放たれたテロルである、ということである。これを「イデオロギー外部破壊」と「イデオロギー内部破壊」として区別することを示してみた。この差がまたレーニンよりもスターリンを非難する主要な要因となっている。つまり、「ブルジョワジーを殺るのは良いが、身内を殺るのはけしからん」というわけである。

 人民の敵アレクサンドル・ユーリエヴィチ・チヴェリは、1937年3月初旬のある日、ソ連秘密警察の銃殺班によって処刑された。世界をゆるがすこともなかった一日だった。■アメリカのジャーナリスト、ジョン・リードの一〇月革命見聞記「世界をゆるがした10日間」をもじった表現。

 一介のジャーナリスト、編集者、中堅どころの幹部にすぎないチヴェリは、どうみても当時の重要公文書に特記されるような人物ではなかったし、スターリン権力の中枢にいたわけでもない。しかし、そうだからこそ、いうなればごくありふれたソヴィエト人の典型として、この人の身の上は語るにあたいする。チヴェリは、なんらかの理由で、あるいは理由などなしに、1937年と1938年に処刑された70万人近くの市民のなかの一人となった。これらの人はすべて、「反革命」とおぼしきさまざまな分子を排除して共産党とソヴィエト連邦を浄化するという名目で、多くは裁判その他の法的手続きをふまずに、処刑された。チヴェリの経歴は、スターリン時代のテロの縮図でもある。

 チヴェリは、世紀があらたまる直前にバクーで生まれた。そこからほど遠からぬところで、若き日のスターリンが非合法革命家として活動しはじめていたころである。両親はさる外資系会社につとめるホワイトカラーだった。辺境のユダヤ人家庭に生まれたため、一生うだつがあがりそうもないと思われたが、しかしアレクサンドルはあたまのよい子で、幼いころから英語、ドイツ語、フランス語を勉強し、使いこなせるようになっていた。

 政治にも関心をもち、16歳でバクーのシオニスト学生組織に加盟した。ロシア帝国の非ロシア地域で政治に積極的にかかわるユダヤ人など、支配体制側はほとんど相手にしてくれなかった。そういう不利な立場にありながら、18歳で高校を卒業、将来の進路を考えていた。卒業の年がたまたまロシア革命の年、1917年だったことが、運命のわかれ目になった。

 この年の劇的なもろもろのできごとのなかで、どんな役割を演じたか、さだかではないが、1918年には、チヴェリはピャチゴールスク・ソヴィエトの軍事部に、つづいてボリシェヴィキ新政府のモスクワ宣伝局に勤務していた。同年末、ソヴィエト政府の通信社ROSTA〔ロシア電報通信社、タス通信社の前身〕の編集局にはいり、内戦期(1918―21年)にはROSTAおよびソヴィエトのいくつかの新聞の通信員としてモスクワ、ヴォルガ地域、タシケントで活躍した。編集者としての実力と語学力のおかげで、そういう才能のある人をのどから手がでるほどほしがっていた新政権にとって、貴重な人材となったのである。

 内戦終了後、アレクサンドル・チヴェリは編集者、執筆者としてモスクワの共産主義インタナショナル(コミンテルン)で働き、そこでエヴァ・リプマンと出会い、結婚した。1925年レーニングラードに移り、「レニングラーツカヤ・プラウダ』紙外報部員となったが、1926年モスクワにもどり、共産党中央委員会書記局と中央委文化・宣伝部で編集の仕事にたずさわることになった。共産党の出版物のために働いてきたのに、チヴェリは党員ではなかった。しかし、中央委機関での新しい仕事につくために、党籍が必要となった。編集者としての経験と語学力を高く買われていたので、中央委の特別指令で、ふつうは党員候補期間が必要なのに、それをとびこして1926年12月にいきなり正規の党員として入党をみとめられた。その後の10年間、チヴェリはモスクワの党本部でずっと働きつづけ、中央委国際情報局の局長補佐のポストを占めるにいたった。

 表面を見るかぎり、チヴェリの履歴には非の打ちどころがないように見えた。電報のあて先をまちがえたとか、党員証を紛失したとかいう些細なミスで、三度譴責をうけたことはあったが、履歴にこの種の小さな傷をもつのは、党員としてぺつにめずらしいことではなかった。しかし、舞台裏では党の最高指導者たちが、下級職員の履歴をいつになく綿密に調べていた。政治上の異論を申し立てた人びと、あるいは政争に敗れた人びととの仕事のうえでの関係が調査され、悪いほうに解釈されることが、ますます多くなった。チヴェリの過去には、この種のうたがわしい関係が二度あった。1925年、レーニングラードにいたころ、左翼反対派グリゴーリイ・ジノヴィエフの追随者たちと一緒に働いたことがあった。悪い時期に悪い場所にいたものだ。というのも、当時ジノヴィエフはレーニングラードの党のボスで、当然ながらチヴェリの働いていた新聞も、ジノヴィエフ支持者たちの監督下にあったからだ。さらに、1936年まで国際情報局でチヴェリの直接の上司だった人物は、かつてのトロツキスト、1920年代にスターリンを痛烈に風刺し批判したことで知られるカール・ラーデクだった。

 ジノヴィエフその他の旧左派の1936年8月の見せしめ裁判の余波で、疑心暗鬼は頂点にたっした。異端者たちには死刑が宣告され、裁判のあおりをうけて、ラーデクのように左派に加担した人びとは、きびしい詮議をうけるようになった。8月末にラーデクは逮捕され、同時にチヴェリも秘密警察(NKVD)に連行された。妻と幼い息子は、これ以後二度とかれに会うことがなかった。

 チヴェリはその後六カ月にわたって獄中で尋問をうけた。取調官が拷問をくわえたかどうかはわからないが、ほかの多数の人が拷問を受けた証拠はじゅうぶんにある。高官でさえ勾留中になぐる蹴るの拷問をうけた。のちのモロトフの言をかりるなら「したたかにやられた」のである。10年後に警察の一高官が、スターリンあての手紙のなかで取り調べの実情を述べている。まず、自白すればその見返りに食事、文通などの面で待遇を改善してやるとの条件が、被疑者に提示される。うまくいかなければ、つぎに被疑者の良心にうったえ、家族を案じる心情にうったえる。つぎの段階では、運動もさせず、ベッドもなく、タバコも吸えず、眠ることもゆるされない独房に最大20日間もとじこめ、食料は1日300グラムのパンだけ、温かい食事は3日に一度だけとなる。ついには、1939年1月10日付けの中央委決定によって、「肉体的圧力」の行使が認められた。こういった処遇は、もっと後の、多少手こころがくわえられるようになった時期の話だが、チヴェリが拘禁されていた1930年代の実態が、これよりなまやさしいものだったとは、とうてい思えない。

 1936年、スターリン指導部の妄想は、さらに肥大した。左右両翼のかつての党内異端派が、逮捕の大波に巻きこまれた。外交官グリゴーリイ・ソコーリニコフ、重工業人民委員部次官ゲオールギイ・ピャタコーフをふくめて、過去に反対派に属したことのある多くの高名なボリシェヴィキが投獄された。全員が妨害工作、スパイその他さまざまな反逆行為など、奇想天外な罪名で告発された。ボリシェヴイキ・エリートは自滅の道をすすんでいた。

 チヴェリが働いていた中央委員会の奥の院の内部でも、疑心暗鬼は正気のさたとは思えぬほどにふくれあがった。そういった妄想の波のひとつのなかで、党中央機関の勤務員、トーロポヴァ、ルキーンスカヤという名の二人の若い女性が、懇親パーティーでチヴェリと一緒にいるのを見かけたことを、だれかが思い出した。党統制委員会議長の要職を占める高官M・F・シキリャートフは、さっそくNKVD〔内務人民委員部〕にメモを送って、この二女性についてチヴェリに尋問するよう要求し、「われわれはチヴェリのダンスの相手となった全員を確認することができないでいる」と不満を表明した。

 1937年3月7日付けでNKVDは、アレクサンドル・チヴェリは二女性に罪を着せるような供述はなにもおこなわなかったむね回答した。しかし最高裁判所軍事合議部は、ボリシェヴィキ指導者たちの暗殺をねらうテロリストの意図を知っていたのみならず、みずから「エジョフ[NKVD長官N・I・エジョフ]にたいするテロ行為を準備した」かどでチヴェリに有罪を宣告した。おそらくチヴェリは即日処刑されたのだろう。NKVDの残虐な拷問をうけた他の多くの人びととはちがって、かれはついに自白しなかった。

 だが、チヴェリの物語は、これで終わりではない。個人をのみこんだテロは、その家族をも破壊した。チヴェリ逮捕の直後、妻エヴァは「政治的理由で」仕事をクビになり、これが履歴の傷となって、どこにも就職できなくなった。まもなくモスクワの公共集合住宅のフラットからも追い出され、「路頭にまよう」はめとなって、病弱な幼い息子をつれて実家の母親の超満員のフラットにころがりこんだ。しかし1937年4月、エヴァ・チヴェリとその息子はモスクワから追放され、遠いシベリアのオムスク州に流刑となった。母親もフラットを追い立てられ、娘や孫とともに流刑にされた。おそらく二人をかばったためだろう。

 1937年10月、こんどはエヴァ・チヴェリがオムスクで逮捕された。トボーリスク刑務所に八カ月収監されたのち、NKVD特審部(この機関はなんら犯罪をおかしていない人びとにまで判決を下す権限をもっていた)によって、「祖国にたいする反逆者の家族」であるという理由で八年間の収容所入りの宣告をうけた。テロによる狂暴な人間関係破壊は、これにとどまらなかった。エヴァ逮捕の直後、NKVD係官がエヴァの母親の住居にやってきて、チヴェリの九歳の息子を孤児収容施設に連行した。やっと母に再会できたとき、息子は20歳代のなかばにたっしていた。

 収容所で8年の刑期をつとめあげたのち、他の多くの人と同様に、エヴァはさらに8年のシベリア流刑の追加宣告をうけた。スターリンが死んだ1953年になって、やっと釈放され、モスクワにもどった。

 エヴァはすぐさま、亡夫の名誉回復をもとめる運動をはじめた。1930年代のテロによって何十年も苦しみつづけたほかの何百万の人びとと同様に、25歳の息子もまた「人民の敵の子」という公式のレッテルをあいかわらず貼りつけられていた。1955年初頭からエヴァは「わが子の父親にたいするこの誤った判決の取り消し」と、アレクサンドル・チヴェリの死後名誉回復をもとめて、各方面に手紙を出しはじめた。再審は、はかばかしくすすまなかった。そこでエヴァは、犠牲者の未亡人、肉親、元囚人たちの団体にくわわり、公正な裁定をもとめて役所をめぐり歩いた。1957年5月23日、チヴェリの処刑の20年後に、そしてエヴァが多くの手紙や嘆願書を書きまくったのちに、ようやくチヴェリの判決と党除名処分は取り消された。最高裁の決定は、いつも多くのことがらを隠蔽してきたあの簡潔な言語で、1937年の判決は「矛盾した信用できない資料にもとついたものであった」と認定しただけだった。(アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編著 『ソ連極秘資料集 大粛清への道』 3~7頁)

 この大テロルの表面上の様相は、レーニン時代のテロルといかに大きく違うものであるか、この事例だけでもよく理解できる。内戦と区別することも難しかったレーニン時代は、逮捕、処刑は公然たるものであったのに対し、スターリン時代のテロルは通常、逮捕は真夜中の秘密警察による連行であり、外部から見えないところで尋問、拷問が行われ、処刑は密かに執行され、遺体は関係者以外誰にも知られないように処理されている。このことで、残ったものたちにあたえる恐怖は想像を絶するものがあるだろう。いつ自分の番になるか分らないのである。密告が奨励、あるいは強制され、人々は自分以外の誰も信じられないような、ばらばらな原子へと分解されていく。体制に絶対服従でなければならないが、たとえそうしたとしても命が保証されるわけではない。どれだけ体制のイデオロギーに従順であり、支持していたとしても、どれだけ体制に貢献したとしてもそれが何の保証にもならないのである。つまり、真に安全が保障されているのはスターリンただ1人である。しかし、スターリンの主観からすれば、いつ暗殺されるか分らないという強迫観念に付きまとわれていたのである。現実にその危険がどれだけあったかは別問題であるが・・・

 大テロルに関わる謎は、あまりに多く、多岐にわたるがそのいくつかを列挙してみよう。まず、その巨大な規模であり、なぜこれほどまで人的損失が生じたのかということである。それも、共産党の最上層部である政治局員から中央委員、それ以外のすべての階層の共産党員、赤軍の司令官、将校、下士官クラスに至るまで、社会全体で重要な位置を占めるさまざまな職業の人々、学者、知識人、テクノクラート、さまざまな専門職からまったく最下層の労働者、農民に至るまで、さらにテロルを執行している秘密警察の幹部、職員までテロルの標的になっている。それは明らかな政治的敵・・・そのほとんどはすでに弾圧され、撲滅され、国外に追放されている・・・だけでなく、そのような履歴を持った人、何らかの関わりを持った人々まで拡大されていく。社会全体にあたえるダメージは巨大なものになった。それは体制にとっても非常な損失であり、ダメージになったはずである。それにもかかわらず、とても敵とは思えない、その潜在的可能性すらほとんど考えられないような人々さえどうしてテロルの標的になったのだろうか。スターリンとその側近たちは本当にそのように考えていたのだろうか。つまり、いまだ階級の敵は至るところに存在していると信じていたのだろうか。それとも、それは口実であり恐怖による支配を完全なものとするためだったのだろうか。それとも、この両者の中間あたりが真実なのだろうか。

 そして、なぜこれほど多くの人々が、まったく身に覚えのない陰謀を告白して、処刑されていったのだろうか。厳しい尋問、拷問、親族に対する弾圧の脅迫、告白すれば罪を軽くするという誘いなどがあったとしても、志操堅固な革命家であったものたちまで到底考えられないような罪状を認めているのである。そして、スターリンはなぜこれほど奇想天外な罪状をでっち上げることに、その意味を感じていたのだろうか。そして、そのことはソ連社会だけでなく、西欧をはじめとする諸外国において、それをまともに受け取る人々が多くいたということも、今では不思議なことである。これは当然、それらの相互関係によって成り立っているということがいえるだろう。フランソワ・フュレの『幻想の過去』で述べられている共産主義幻想は、現在とはまったく違うものであることは想像がつく。そして、かりにも大国の政治上層部で正式に発表されていることが、まったくの嘘で固められているとは信じられない・・・このような心理も働いているだろう。

 このような事態に対して、表立った反抗がほとんどなかったということも不思議なことである。助命の嘆願書が大量にスターリンのもとに送られたけれども、それ以上の実力行使のような反抗はまったくといっていいほどなかったのである。特に、赤軍の上層部は事態の危険性を認識していたにもかかわらず、その気配もなく、何ら行動も起こさなかった。ソ連崩壊後の情報公開によっても、スターリンに対する具体的な暗殺計画すら一件も発見されていない。これも驚愕すべきことである。何しろ為政者に対する暗殺はロシアの十八番であり、長い伝統がある。それなのにロシア史上もっとも暴政を働いたスターリンに対する暗殺は知られていないのである。これは30件以上の暗殺未遂があったヒトラーとは好対照である。スターリンに対する批判はあったけれども、それが暗殺という最終手段には至らなかったのである。これはおそらく、イデオロギー上の外部敵がほとんど撲滅されていた、ということが大きいだろう。これは大テロル以前からあったことであるが、批判はイデオロギー内部からのものであり、トロツキーにしろ、リュウチンにしろ、マルクス、エンゲルス、レーニン、そして党には何ら疑義を指し挟んではいない。批判の矛先はあくまでスターリンなのである。また、このテロル作戦は隠密のうちに遂行されていて、スターリンがその首謀者であるということははっきり分らなかった。盛大なスターリン崇拝が行われ、大テロルの時期ですら、社会の雰囲気はそれほど暗くなかったということである。共産党員の中には大テロルを支持するものも大勢いた。それは強制によってだけでなく、心からそう思っていたのである。

 スターリンにとって、1939年の第18回党大会は、34年の第17回党大会(「勝利者の大会」)以上にその名にふさわしい勝利者―または生き残り―の大会となった。代議員の点呼を聞けば、彼がこれまでの5年間に、まったく新しい党をいかにうまくつくりあげたかがよくわかった。34年の大会の代議員1966人のうち1108人(フルシチョフによる数字)が反革命的な犯罪で逮捕されていた。幸運にも生き残った者のうち、39年に代議員としてまた姿を見せた者はわずか59人にすぎなかった。中央委員会の委員の再編成も同じように劇的だった。34年に選ばれた139人の正規の委員と委員候補のうち115人が39年にはもはや姿を現わさなかった。フルシチョフは彼らのうちの98人が銃殺されたと報じた。しかし、メドベージェフは本当の数が110人だったと述べている。

 ベリヤはNKVDの幹部層を、前任者のエジョフに劣らず、きれいさっぱりと掃除した。フリノフスキーとザコフスキーのように、ヤゴーダの時代から生き残って、ブハーリンの裁判の準備をしたごく少数の者は、同僚たちのあとを追って処刑された。エジョフの世代も同様だった。全体として、NKVDのメンバーの2万3000人以上が1930年代末までに抹殺されたと推定されている。39年3月までには、ベリヤの部下がすべてを取り仕切るようになっていた。その典型は、彼がモスクワへ連れてきたグルジア人の部下たちだった。調査委員会による報告のあと、約5万人にたいする告発が取り下げられた。政策に変更が生じたというよりも、その適用が緩和されたことを示すジェスチュアである。エジョフが緊急の措置として行なった粛清は、ベリヤのもとで永久的な支配の手段として制度化されたのである。

 エジョフがスケープゴートに名指されたので、スターリンは進んで誤りがあったことを認める気になった。そして大会の報告のなかで、代議員たちに語った。「粛清が重大な誤りなしに行なわれたとは言えない。不幸にも、予期していた以上の誤りがあった」。しかし、彼は代議員たちを安心させた。「疑いもなく、われわれはこれ以上、大量粛清というやりかたに戻る必要はないだろう。ともあれ、1933~36年の粛清は避けることができなかったし、その結果は総じて有益であった」。

 疑いもなく不安に駆られて耳をそばだてていた代議員たちは、スターリンの言及した党からの追放が中央委員会により憲法にもとついて公認された1933~36年の時期だけのものだった事実を聞き漏らさなかったはずである。だが、1937年から38年に行なわれた粛清については、何のコメントもなしに無視された。追放され、あるいは処刑された者の数が10倍にもなり、ごく少数を除いて、裁判にかけられたすべての者にたいする判決のよりどころが、スターリンと内密に行動した一人か二人の政治局員の判断だった時期のことである。だが、報告の最後になってやっと、若い世代の急速な昇進に言及しながら、スターリンは独特のブラックユーモアで味つけしてこうつけ加えた。「しかし・・・・・いつの世にも古参のカードルは必要な数よりも少ないものだ。彼らのような階級は、自然の法則が働いてすでに間引かれはじめている」(アラン・ブロック 『ヒトラーとスターリン 第2巻』 273、274頁 )

 かつての左翼反対派も右翼反対派もそのほとんどが絶滅させられた。生き残った古参ボリシェヴィキはほとんどがスターリンの側近中の側近、忠誠を尽くしてきた子分たちだった。1人国外に亡命して、スターリンと体制にペンによる猛烈な攻撃を続けていたトロツキーは1940年8月、亡命先のメキシコで、ついに身辺に潜入していた工作員によって暗殺された。主だった体制の反対者はこの地上から一掃されたのである。

 まさに1930年代は、ソ連の各時期を通じて最大の弾圧、テロルの時代となった。農業集団化は農民の抵抗を押さえ込むために、大量餓死が生ずるのを知りつつ穀物を取上げ、移住を制限した。クラークはシベリアの奥地へと追放され大勢が死んだ。強制収容所に大量の囚人が送られ、過酷な強制労働によって多くの人命が失われた。民族単位の強制移住も大規模に行われた。移住先は到底、生活していけないような場所がほとんどだったのである。直接の逮捕、銃殺はそのなかの一部分なのである。 

・・・それは戦争中でもないし、内戦や動乱の時期でもない。普通の生活が続く社会の中で、そこの住民が1人、また1人といなくなっていく。そしてその人は二度と戻ってくることがない。それがどういう意味を持つのか、彼らはどうなったのか隣人と話すことさえできないのである。その隣人は密告するかもしれない。真夜中にアパートの階段を上ってくる足音を聞いただけで心臓が縮みあがる恐怖なのである。そのような生活が延々と続いてゆく・・・ 1941年にナチスドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が始まった。その時の大テロルの渦中にいた人物が話したことが印象に残っている。 「戦争が始まって私は心の底からほっとした。この戦争で私は死ぬだろう。だがしかし、少なくともその時までは、夜安心してゆっくりと眠ることができる」

(次回に続く)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

ひろびろ
2020年02月12日 21:08
 壮大な歴史の闇の一部分の紹介、凄まじいものですね。ソ連のこの悲惨は中共にもカンボジアにも引き継がれるが如く自国民を迫害し殺害している。しかもその数の巨大なこと、そして中共では今なお継続中であること。1回目で書かれているようにそれが情報操作によって統制され隠されている。
 幾つかの断片は聞いたことがあっても2回目に書かれている様な細部は知らないことばかり。ひどい時代だったんですね。
 日本軍は負けて兵士たちはシベリアに抑留され極寒の地で過酷な労働に駆り出された。これもひどい話だけれどスターリンの時代にソビエト国民はもっとひどい恐怖におののいていた。この狂気は、クメールルージュや毛沢東の大量粛正、今なおあるチベットやウイグルへの弾圧やテロと併せ広く知らしむべき事ですね。

 うちのマンションの管理人さんが何か書籍を読んでいるのでチラッと見たら辻井喬の名が表紙に見えて、インテリだなぁと興味があったから聞いてみたら小説家の辻井喬ではなく実業家としての堤清二が日経新聞に書いた自身の足跡をまとめたもの。
 1970年代から80年代にかけて池袋、渋谷の西武、パルコ文化、流通業界の時代の先端を行ってましたね。資本主義の申し子のような寵児だっただけど、ひそかに堤清二は共産主義への憧れを持ち続けていたと、側近だった人が云ってましたね。
 戦後に青春を迎えた人にはそうした傾向があるみたいで、まぁ戦争が終わった反動と云えばそれまでだけれど、今なおその亡霊は生きてるみたいですね。
 オーウェルが1948年に「1984」を書いて全体主義の怖さを警告したのに、徹底した監視社会は中国で現実のものとなりつつあるし(いや資本主義社会でもそうなりつつありますか)、共産国家は消えて行くのに共産主義はアメーバのようにこっそり隠れ広がりつつある。
 その警鐘としてのブログアップだと思うんですが、次に続くんですね!

 
イオンのバベル
2020年02月13日 14:39
ひろびろさんへ 

 共産党の大きな特徴は、自国民を弾圧、迫害することですね。ナチスのように民族で区分けしませんから非常にわかりにくい。ブルジョワジーと言っても相対的なものであり、 どこにその線を引くかということは完全に恣意的です。どのようにでも線をひくことができるので誰がどちらにつくのかは、はっきりとは分かりません。その上、労働者側、下層階級に区分されたとしても権力に絶対服従でなければ、たちまちそれだけでブルジョワジーの側についているとみなされ弾圧されます。

 中国共産党の場合は共産主義を中華民族主義にために利用しているという面が最初からありますから、共産主義に忠実であろうとしたソ連共産党とは違うように思いました。ウイグルやチベットの弾圧は建国当時から始まっていますね。

 堤清二は隠れ共産主義者だったというのはどこかで聞いたことがあります。昔はよく池袋に遊びに行って、パルコや西武で買い物をしたりしましたが、どうして共産主義に憧れるのか私には理解できないことです。

コメントありがとうございました。