共産党のテロの始まり-レーニンとロシア革命


 これまで共産党のテロをソ連共産党のスターリン時代に焦点を当てて考察してきたが、そこからさかのぼり共産党のテロの始まり、その初動がどのようなものであったかを考えてみることにしたい。それはいうまでもなくレーニンとロシア革命である。 1917年に第一次世界大戦の混乱の中でそれまでロシアに君臨していたロマノフ王朝が崩壊し、政治状況が混沌としている中でレーニンの率いるボリシェヴィキ(ソ連共産党)がクーデターによって権力を奪取したのである。それが現在まで100年以上続く共産党のテロの始まりとなったのである。それこそ現在の日本もその危機の中にいるのだが、ほとんどの日本人はその危機意識が全くないといってよいだろう。

 ロシア革命

 1917年10月25日(新暦11月7日)レーニンとボリシェヴィキはクーデターによって、その権力を掌握した。ついに社会主義革命のルビコン川を渡ったのである。ここに至るまでの経過は、多くの書物によって研究され、描かれてきたことであるがボリシェヴィキにとって多くの幸運が重なったことがわかっている。蜂起の段階で権力の掌握は確実なものとなっていた。しかし、その権力を維持することは非常な困難が待ち受けていたのである

 革命が成功したそのとき、人類がいまだかつて経験したことのない、マルクス主義、共産主義イデオロギーのイデオロギー空間が形成された。それは目に見えない衝撃波となって地球全体を駆け巡ったのである。レーニンは『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』の冒頭部分でこのように書いている「マルクスの学説は正しいから、全能である。その学説は完全で均整がとれており、どのような迷信とも、どのような反動とも、またブルジョワ的抑圧のどのような擁護とも妥協できない、全一的な世界観を提供している」これは唖然とするような文章である。ある学説の正しさが、どうして全能性へと結果するのだろうか。

 ブルジョワジーや貴族、立憲民主党に対する弾圧は、革命直後に始まっている。そして、官僚のストライキや反革命分子を取り締まり、弾圧するための秘密警察、チェーカーはジェルジンスキーの指揮のもと革命後2ヶ月足らずで設立された。恐るべき20世紀秘密警察の典型的な雛型が形成されていったのである。これらは白衛軍などの本格的なボリシェヴィキに対する挑戦がはじまるかなり前の事である。ここで注目しなければならない重大な問題は次のようなことである。この秘密警察はそれ以前の帝政時代の秘密警察とは根本的に性格が異なる、ということである。帝政時代の秘密警察は、イデオロギー上の目的ではなく専制体制を維持し、守ることが目的であった。しかし、チェーカーはマルクス主義、共産主義イデオロギーに奉仕するという目的があったのである。ジェルジンスキーは志操堅固な共産主義者であった。これは単にボリシェヴィキ体制を打倒する勢力から守るということのみが目的なのではない。ブルジョワジーとその勢力、あるいは旧体制の勢力がボリシェヴィキにとって危険であろうが、なかろうが、その階級であるということにおいて、収奪され、抑圧され、弾圧、抹殺されるべきものなのである。 

 赤色テロル

 ソ連崩壊以降、ボリシェヴィキの赤色テロルについての多くの新しい事実が明るみに出されてきた。そのことによって従来言われてきた「赤色テロルは白色テロルに対する仕方のない防衛として発動されたものである」という見解は、まったく事実に反するものであることが明らかになった。1918年8月30日のレーニン暗殺未遂事件から赤色テロルの宣言がなされたのであるが、10月革命直後からテロルは事実上、開始されていたのである。レーニン暗殺未遂事件はそのテロルを公然のものとしてとき放つことになったのである。10月革命直後、ボリシェヴィキはイデオロギーの立場が近かったエスエルやメンシェヴィキに対しては、直ちにテロルに訴えるようなことは起こさなかったが、ブルジョワイデオロギー政党である立憲民主党に対しては直ちに弾圧を行った。その中で、臨時政府で閣僚を経験したシンガリョフ、ココーシキンがボリシェヴィキ派の兵士によって射殺されている。これは1917年11月に起こったことである。レーニンは極秘指令によってチェーカーを創設し、テロルと弾圧をシステマティックに開始した。それ以降、レーニンの残虐な多くの指令はソ連崩壊まで隠蔽されていたのである。これらは現在では多くの文献によって読むことができるものであり、ここではその具体的な内容を引用してから、マルクスの理論、唯物史観と赤色テロルの関係を中心に考察してみたい。

 これはボリシェヴィキのプロパガンダを真に受けてきた左翼系知識人によって増幅されてきたものであるが、赤色テロルが白色テロルのやむを得ない防衛として起こされたものであるということは、事実に反しているだけでなく、そもそも論理的にいってもありえないことなのである。ボリシェヴィキは権力の座を維持するだけの従来の政権とは違う。権力を維持する目的だけならば、敵が攻撃してきた事に対する防衛としてテロルを発動するということは理にかなったことである。しかし、ボリシェヴィキは社会主義革命をおこなう―すなわちブルジョワジーと旧来の帝政派の勢力、資本主義社会の主要な担い手を弾圧し、撲滅するというイデオロギーの目的を持っていたのである。これらがテロルの先制攻撃の対象にならないということはほとんど考えられない。もし、テロルの先制攻撃が行われずに社会主義革命を遂行するという状態があったとすれば、これらブルジョワジーや帝政派の勢力が犬よりもおとなしく、ボリシェヴィキの言うことを聞くであろうということがわかっていた場合だけだろう。レーニンは10月革命を成功させ、権力を握った直後から当然のごとくこの先制攻撃の準備を始めた。それがどれくらいの規模になり、どのくらいの期間つづくかということはレーニンにも分らないことであったが、とにかくブルジョワジーの勢力に対する先制攻撃は絶対不可欠なのである。それはパリ・コミューンを分析したマルクスの『フランスの内乱』から導き出されてきたことでもあるだろう。コミューン勢力はブルジョワ政権を追撃し、打倒しなかったために反撃され壊滅したのであるから。

(引用開始)

 ロシアの歴史家で社会主義者だったセルゲイ・メリグノーフは一九二四年にベルリンで出版された『ロシアの赤色テロル』という本の中で、チェーカー(ソ連の政治警察)の初期の長官の一人だったラツィスが一九一八年十一月一日に部下に与えた次のような指令を引用している。「我々は特定の個人を相手に戦争をしているのではない。我々は階級としてのブルジョワジーを皆殺しにしているのだ。捜査の時、被告がソビエト当局に行動や口頭でどんなことをしたかを、書類や証拠物件で捜す必要はない。最初に質問することは、そいつがどの階級に属すのか、出身はなにか、どんな教育や訓練を受けたのか、職業は何かということだ。」最初からレーニンとその同志は、「階級戦争」の立場を明確にし、政治的・イデオロギー的敵、あるいは服従しない住民さえも敵と見なして扱い、容赦なく皆殺しにすべきだとした。ボリシェヴィキは自分たちの独裁政権に反対する者、抵抗する者を、たとえ彼らが受動的であっても、法律的にも肉体的にも抹殺することに決めた。それは彼らが政治的に対立する集団である時だけでなく、貴族、プルジョワジー、インテリゲンツィア、教会、専門的職業(将校、憲兵等々)などの社会的集団であっても同様で、しばしば彼ら全員を虐殺したのだった。(ステファヌ・クルトワ 他著『共産主義黒書 ソ連篇』 16頁)

 以下引用文は、(リチャード・パイプス著『ロシア革命史』)の第10章 赤色テロル からの抜粋である。1918年7月17日―すなわちレーニン暗殺未遂事件より前に―レーニンはニコライ二世の殺害を命じ、この日にニコライ二世と家族は召使いを含めて全員が虐殺された。

 彼らは午前一時三十分に起こされ、市は不穏な状態にあり、時たま乱射があるので、地下室へ移されると告げられた。午前二時に、重装備の守衛隊に連れられて、ロマノフ家の七人、侍医、侍女、そして二人の召使いが地階に降りていった。少しあとに、この家の司令官でありチェーカーのメンバーであるヤコフ・ユロフスキーという人物が、武装した守衛隊の一団を伴って、こんだ部屋に入ってきた。最近発見されたこの事件についての彼の回想録によると、続いて起きたことはこうであった。

 「一隊が入って、〔私は〕ロマノフ家の人々に、ウラル・ソヴェト執行委員会は、その親族がソヴェト・ロシアへの攻撃を続けているという事実を考慮して、彼らの射殺を決定したと告げた。ニコライは分遣隊に背を向け、家族の方に向かった。そして、気を取り直したかのように、向きを変えて、「何、何だって」と尋ねた。〔私は〕素早く、述べたことを繰り返し、分遣隊に用意するように命じた。隊員には、前以て誰を撃つか、そして、直接、心臓を狙い、多くの血を流すのを避け、より迅速に終わらせるようにと指示していた。ニコライは、もう、何も言わなかった。彼は、再び家族の方を向いた。他のものは、支離滅裂な叫び声をあげた。これは、全てで数秒間のことであった。そして、射殺が始まり、二、三分の間、続いた。〔私が〕ニコライをその場で殺した」。若いアレクセイは、床のうえで血の海のなかに横たわっていたが、しかし、まだ、息があり、ユロフスキーによって頭に二発撃ち込まれて止めをさされた。ユロフスキーのいうところの「処置」全体には、二十分を要した。

 死体は運搬車に載せられ、市から、予めこのために選ばれた場所に運び出された。そこで、身ぐるみを剥がされた。三人の娘がコルセットに大量のダイヤモンドを縫いつけていたことが発見された。刑の執行者たちがそれを盗むのを防ぐことに、ユロフスキーはかなり苦労した。死体には硫酸と灯油がかけられ、焼かれた。遺骸は浅い墓穴に埋められ、一九八九年まで発見されなかった。

 *ドイツを宥めるために、ボリシェヴィキはニコライの処刑のみを発表し、皇后とその子供たちは安全な場所に疎開していると主張していた。このような嘘を、体制はその後十年間、主張し続けたが、そのためあらゆる種類の伝説が生まれることになった。その最もよく知られているものは、一番下の娘のアナスターシア大公女が生きているというものであった。アナスターシアも、あるいは皇帝家族の他のメンバーでも、その虐殺から生き残りえた方法は、考えうる限り、全くない。エカチェリンブルクのソヴェトからクレムリンへの通信では、家族全員が死んだと伝えていた。トロツキーの日記もこの情報を確証している。

 目撃者によれば、一般に人々は、ニコライの死の知らせに全く冷淡に対応した。あるドイツ大使館員の言葉によれば、「身分の高い、冷静な人々でさえ、余りにも惨劇に慣れてしまっており、自分自身の気苦労や困窮で余りにも頭が一杯で、何か特別なものを感じることができない」のである。

 ニコライは、統治した君主として、歴史上、初めて処刑されたわけではなかった。他に二人のヨーロッパの国王が、革命の動乱のなかで命を失っている。一六四九年のチャールズ一世と、一七九三年のルイ十六世である。しかし、これは、ロシア革命に関する他の多くのことについても言えるのであるが、この事件のうわべの特徴はありふれたものであるが、他は、全て特異なものである。チャールズ一世は高等法院で審問され、自らを弁護する機会も与えられた。裁判は公開され、処刑も公衆の観るなかで行われた。同じことは、ルイ十六世にも言える。彼の運命は、国民公会の投票で決せられた。ニコライは告発されることも、裁かれることもなかった。ソヴェト政府は、彼に死を宣告したが、関連する資料を決して公表しなかった。ロシアの場合には、犠牲者は単に、廃位された君主のみならず、彼の妻、子供たち、そして召使いたちにも及んだ。真夜中になされたその行為は、法的な意味における処刑というよりも、ギャングによる大虐殺ともいうべきものに似ていた。

 エカチェリンブルクの悲劇に続く年月のうちにチェーカーが奪った何万という命と、その後継者によって殺された何百万の人々を考慮すると、捕らわれていた十一人の死は、異常な出来事とみなすことは殆どできない。それにもかかわらず、その虐殺は深い象徴的な意味をもっていた。第一に、それは必要のないことであった。もしボリシェヴィキが、かつてのツァーリが反革命の道具となることを本当に懸念していたならば、彼らには、ツァーリとその家族を、チェコ兵、あるいは、他のどんな敵も手の届かないモスクワへ移すだけの十分な時間があった。そうしなかったとすれば、ボリシェヴィキ政府に政治的に必要とする理由があったからである。一九一八年の七月には、政府は、モスクワのあるドイツ駐在員の言葉をかりれば、「生ける死骸」となっており、あらゆる方面からの攻撃にさらされ、その多くの支持者から見捨てられていた。痩せ細るその支持者たちを保守し続けるために、政府には流血が必要であった。これらの出来事を回想したもののなかで、トロツキーが、このことを大かた認めている。かつてのツァーリとその家族を処刑するという「決定」は、「単に得策であったのみならず、必要でもあった。この処刑の苛酷さが、我々が容赦なく戦い続け、何ものにも立ちすくむことがないことを、全ての人に示した。ツァーリの家族の処刑が必要とされたのは、単に脅し、恐れさせ、敵のなかに絶望の感覚を滲み込ませるためのみならず、我々自身の隊列を奮い起たせ、どのような後退もなく、前にあるのは、全面的な勝利か、全面的な破滅か、どちらかであることを示威するためでもあった」と、彼は書いていた。

 ドストエフスキーの『悪霊』の主人公らのように、ボリシェヴィキは、浮き足立つ支持者を集団的な犯罪という絆により縛りつけるために、殺人を犯さねばならなかった。ボリシェヴィキ政府が、無辜の犠牲者に対し道義心を問われることを多くなせばなすほど、平のボリシェヴィキは、ためらうことも、妥協することも何らないし、自分たちは指導者に離れがたく結びついていると認識せざるを得なかった。エカチェリンブルクの虐殺により、ソヴェト体制は、正式には六週間後に始まる、全面的な「赤色テロル」に一歩近づくことになった。その犠牲者の多くは人質から成っており、彼らは罪を犯したからではなく、トロツキーの言葉によれば、彼らの死が「必要とされた」ために処刑されたのであった。

 政府が、市民を行為によってではなく、その死が「必要とされる」が故に殺すという権限をほしいままにするということは、それは、ジェノサイドの分水嶺を越えて、全く新しい道徳の領域に入ることである。ボリシェヴィキがロマノフ家の人々に死を宣言した際に用いたのと同じ論法が、後に、ロシアや他のどこかで、新しい「世界秩序」のあれこれの構想の邪魔になる何百万もの名もない人々に適用されることになろう。

 大テロル

 自由な選挙では四分の一以下の票しか得られず、きわめて異常な社会的および経済的な実験を肯んじない個人やグループは何であれ敵とみなし、人口の十分の九を占める農民と「ブルジョワ」をアプリオリに階級の敵とみなす、そのような政党は、同意によって統治することはできず、テロルを恒常的に行使せざるを得なかった。この問題では、もし、権力の座に留まることを望むならば、そうするより他はなかった。テロルは、まさしく、ボリシェヴィキ体制のとる手段と目標のなかに組み込まれており、それ故、わずか一年しか続かなかったが、その原型とも言えるジャコバンとは異なり、その体制が存在する限り続いた。そして、テロルは、単に即決の処刑を意味するのではなく、無法状態の雰囲気があまねく広がっていることを意味していた。そこでは、支配する少数者はあらゆる権利をもつが、支配される多数者は何ら権利をもたないのであり、普通の市民には、全くの無力感を印象づけた。左派エスエルで、しばらくの間、レーニンの法務コミッサールとして働いたアイザック・シュタインベルグの言葉によると、それは「上から国の住民全体に投げ掛けられた重く息苦しい外套であり、不信、潜む警戒の気配、復讐への渇望から織りなされている外套」であった。それは、全ての人の生活に、明けても暮れても、影響を及ぼし、それを歪めるものであった。

 レーニンを支持し弁護する人々は、テロルに頼ることは、遺憾ながら彼には必要であったと正当化しようとした。コミンテルン第一書記のアンジェリカ・バラバーノフは、決して盲目的な信奉者ではなかったが、次のように書いている。「ボリシェヴィキによって開始されたテロルと弾圧は、不幸なことだったかもしれないが、それは、外国の干渉と、特権を守り旧秩序の再建を決意したロシアの反動家たちによって、ボリシェヴィキに強いられたものであった」。このような弁明は、疑問に答えるというよりも、さらに多くの問題を提起することになる。ボリシェヴイキがテロルの主要な機関であるチェーカーを設立したのは、一九一七年の十二月であり、外国からの干渉も、国内での組織的な反抗も起こる前であった。

 レーニンは舞台の背後からテロルを指導することにし、関係する布告は部下に署名させたとはいえ、全ての主だった決定は、彼が、直接行った。実に、彼が、気の進まない同僚と部下たちが良心の咎めを消し去って、「容赦のない」残虐な行為に出るように、繰り返しけしかけねばならなかった。彼の書いたものには、公表されたものにも、まだ文書局に眠っているものにも、単に処罰としてのみではなく予防策としても、吊るし首にしたり銃殺することを熱心に説くところが満ちている。

 彼がテロルを好んだ一例が、アイザック・シュタインベルグの回想に記されている。シュタインベルグは、他の左派エスエルと一緒に、ソヴナルコムにおいて、レーニンの布告「社会主義の祖国は危機に瀕す」を批判した。それは、「反革命アジテーション」を含め、定義の定かでないいくつかの犯罪カテゴリーに対して即決の処刑を命じるものであった。彼は「私は反対した」として、次のように書いている。

 「この残虐な脅しが、その宣言の情念全体を失わせている。レーニンは、嘲笑して答えた。『その反対だ、ここに、真の革命的な情念がある。きみは、最も残虐な革命的テロルなくして、我々が勝利することができると、本当に信じているのか」。この点で、レーニンと議論するのは難しく、我々はすぐに袋小路に達した。我々は、広くテロルが及ぷ可能性のある苛酷な警察措置を議論していた。レーニンは、革命裁判の名のもとに、私の反対に怒った。そこで、私は苛立って叫んだ.『それでは、何故、我々は法務人民委員部のことで思い煩っているのか。率直に、それを社会皆殺し委員部と呼び、それで我慢しようではないか』。レーニンの顔は突如として輝き、そして、彼は『そうだ、まさにそうあるべきなのだ―しかし、我々はそうは言えない―』と、応えた」。

 大テロル導入の第一歩は、法が廃止され、それが「革命的良心」と呼ばれるものに取って代えられたことであった。このようなことは、それまで存在したことがなく、ソヴェト.ロシアは、法を法の外においた歴史上、初の国家であった。この措置によって、当局は、彼らの道に立ち塞がる個人は誰であれ処理できることになった。「法に拘束されない統治」というレーニンの「プロレタリア独裁」の定義が実施されたのであった。

 一九一七年十一月二十二日に出された布告は、殆ど全ての裁判所を解散させ、法曹専門職を含め、司法制度と関係する職業を廃止した。それは、法令全書に基づく法を、明らかに無効であるとすることはなかったが―それは一年後のことである―、同じ効果をもたらした。その布告は、廃止されずに維持された地方裁判所の判事に「決定し判決を下す際に、打倒された政府の法に、それが革命によって無効とされず、革命的良心と合法性についての革命的認識と矛盾しない限りでのみ、依拠できる」と通告していたからである。(リチャード・パイプス 著『ロシア革命史』 218~226頁)

 1918年8月30日レーニンはモスクワで労働者に対する演説を行ったあと、女性テロリスト、カプランによって銃撃された。一時は危険な状態になったが、そのあと急速に回復し、10月には政務に戻った。同じ日にペトログラードでチェーカーの地方長官ウリツキーが暗殺され、それに対抗するためにボリシェヴィキは「赤色テロル」を宣言した。

 九月五日の布告は、「階級の敵」を収容所に引き渡し、「白衛軍の組織、陰謀、治安を乱す活動」に関係する人物を、全て即決で処刑することを命じていた。チェーカーとその県支部は、直ちに人質をとり銃殺することに取りかかった。ペトログラードでは、ジノヴィエフが五一二人の人質の大量処刑を命じた。彼らの大部分は、ツァーリ体制と関係していたが、何カ月も拘置所に入れられていたので、テロリストによるレーニン襲撃とは何ら関係をもちえない個々の人物であった。モスクワでは、ジェルジンスキーが、プロトポーポフを含む、何人かのツァーリに仕えた閣僚を処刑した。奇妙なことに、エスエルは、カプランの暗殺計画を立案指導したと告発されていたにもかかわらず、誰も処刑されなかった。エスエルが報復の仕返しをするのではないかという恐れは、きわめて現実味があった。

 ボリシェヴィキは、一種の殺人狂の異常な精神に捉えられていた。赤軍の新聞は、次のような言葉で人々をポグロムへと駆り立てた。「情け容赦なく、我々は、何百人という大量の敵を殺し、それを何千人ともし、やつらを自らの血の中に斃らせよう。レーニンとウリツキーの血の償いとして―ブルジョワジーの血でもって溢れさせよう、できるだけ多くの血をもって」。そして、ジノヴィエフは、九月半ばに共産主義者のある集会で次のように述べた。

 「我々は、ソヴェト・ロシアの一億の住民のうち、九〇〇〇万の人々の共感を得なければならない。残りに関しては、何も彼らに言うことはない。彼らは殲滅されねばならない」。これらの言葉は、体制の最高位にある一公人によるものであり、一〇〇〇万もの人間に対する死の宣告を意味していた。赤色テロルは、怯えた共産主義者が、現実および架空の敵から自らを守るため盲目的に人を殺したために、自らの勢いを増した。罪を犯しているということは、重大なことではなくなった。当時、法務委員部の一員を勤め、後の一九三六年にはその長となるN・V・クルィレンコは、そのことを「我々が処刑せねばならないのは、単に罪のある人々のみではない。無実の人を処刑することは、大衆にさらに一層大きな印象を与えることになろう」と、憚ることなく述べた。そのような哲学が実際に何を意味したかということは、キエフのチェーカーの一員の回想から窺い知れる。

 「もし、ルキアーノフ監獄に収容されている囚人が、突然、チェーカーに呼び出されたとすれば、そのように急ぐ理由に関しては、疑いの余地はない。公式に、収監されている者が自分の運命を知るのは、通常は午後一時という処刑の時間に、「尋問に」呼び出される人物の名簿を読む声が、小房に鳴り響くときである。彼は、監獄の事務局に連行され、そこで、その登録カードの該当するところに、普通はそこに書かれていることを読まずに署名をする。通常は、運命の決まったその人物が署名したあとで、何某は判決について知らされたと、その登録力ードに付け加えられる。実際は、これには、幾分、偽りがある。というのは、囚人は監房を出たあと、「丁重に」扱われるのではなく、彼らを待つ運命を面白そうに語られるからである。ここで、収容者は服を脱ぐよう命じられ、刑の執行のために連れ出される。……処刑のために、インスティテュート通り四十番の家屋のそばに、特別の庭が作られていた。……そこに、県のチェーカーは移っていた。……刑の執行者は、司令官か、あるいはその副官、時には彼の部下の一人であったり、時によっては、チェーカーの「アマチュア」であったが、裸にされた犠牲者はこの庭に連れて来られ、彼は地面に伏すように命じられる。そして、執行者は首すじに一発撃ち込み、その人物を片づける。処刑は、リボルバー、通常はコルトで行われた。銃撃はきわめて近い射程から行われたので、犠牲者の頭は、通常はばらばらに破砕された。次の犠牲者も、同様にして連れてこられ、通常は、もだえ苦しんでいる前の人の側に横たえられた。犠牲者の数が多くなりすぎ、その庭に収容することができなくなると、新たな犠牲者は、前の犠牲者の上に置かれるか、庭の入口で射殺された。……犠牲者は、通常、抵抗することなく処刑に赴いた。彼らがどんなことを経験したのかは想像だにできない。……たいていの犠牲者は、別れの言葉を述べる機会を求めるのが普通であった。そして、他に誰もいなかったので、彼らは、処刑執行者を抱き、キスをしたのであった」。

 そのように手当たり次第の流血を数カ月にわたって行ったあとでは、信念の堅い共産主義者でさえ、不安を感じ始めた。それは、人道にかられてというよりは、テロルは、結果として彼らにはね返ってくるのではないかという恐怖心からであった。時が示すように、それは、もっともなことであった。チェーカー要員が、自らの組織以外の誰にも忠誠を示さないとか、「そうしたければ」誰でも、レーニンでさえ逮捕できると豪語するのを、彼ら共産主義者は他にどう解釈することができたであろうか。彼らの批判に応えて、レーニンは、チェーカーの革命への功労に賞賛を惜しまなかった一方で、その権限をいくらか抑制した。一九一九年初めに、無差別のテロルは中止されたが、確実に反体制的な、あるいはその疑いのある人物に対して即決処刑が続けられるように、人質を取ることも続いた。

 ファニィ・カプランによる狙撃は、他にもう一つの結果をもたらした。それによってレーニンの神格化といった政策が鼓舞され、レーニンの死後、それは国家の支持を受け、まさに東方的な崇拝へと転化していくのである。レーニンは求めることにおいて控え目であり、彼の人格の賛美を何ら喜ばなかった。しかし、彼の支持者たちには、彼を崇拝する必要があった。その理由の一端は、国民にとって、国家は、統治者の人格に体現されてのみ意味をもちうるからであり、また、レーニンが体制を推進させる発動機であったことにもよる。半ば神の地位まで高められたレーニンが、そして、レーニンのみが、彼の命令に従うことが唯一の作動原則である政治機構へ、正統性を付与することができたのである。

 そして、一九一八年の八月三十日以降、それまで、自分たちの独裁者について殆ど知るところのなかったロシア人は、レーニンを「神の恩寵による指導者」(ジノヴィエフ)であり、実に新しいキリストであると賞揚するレーニン文献のまさに洪水にさらされているのに気づくことになる。レーニンの回復は奇跡として描かれ、それはレーニンという仲介をへて、人類に自由と平等をもたらす歴史の裁定であると説明された。一九二四年に彼が死んだあと、彼の後継者たちは、彼をミイラとして保存し、霊廟で人々に提示したのであるが、それは、彼がまだ生存中に順調に進んでいた神格化の過程を、彼らが制度化したにすぎなかったのである。

 一九二〇年までに、ソヴェト・ロシアは、保安警察が、事実上、国家のなかの国家として、国有化された経済を運営するために設置された巨大な機構を含め、いたるところにその触手をのばしていたという意味において、真の警察国家となっていた。チェーカーは、国家の安全とは通常は結びつかない広く多様な行動の監視を徐々に引き継ぐようになった。また、チェーカーは、「投機」―別の表現をすれば、私的な商業であるが―を取り締まる法令を施行するために、鉄道およびその他の輸送機関を監督した。一九二一年の四月には、一九一九年に内務コミッサールに任命されていたジェルジンスキーが、交通人民委員に任命された。官僚機構と企業で働く多くの「ブルジョワ専門家」によるサボタージュが起こり得るのを防ぐために、チェーカーはその手先を行政のあらゆる分野に配置した。それは、赤軍とは別に、着実にその軍事力を拡大し、一九二〇年代の半ばには、ほぼ二五万の部員を数えるまでになった。(リチャード・パイプス 著『ロシア革命史』 230~233頁)

 赤色テロルには多くの側面があるが、歴史家は、まず何よりその犠牲者に関心を向けねばならない。その数は、概数でさえ確定されていない。五万から一四万のあいだと推定されている。ただ、確実に言えることは、ジャコバンのテロルの犠牲者が数千人であったとすれば、レーニンのテロルは何万人もの命を奪ったということである。スターリンとヒトラーによって起こされた次のテロルの波による犠牲者は、何百万という数にもなる。大虐殺は何のためだったのか。

 ジェルジンスキーは、レーニンも繰り返すことになったが、テロルとその機関であるチェーカーが革命を救ったと自慢するのを好んだ。この主張は、「革命」がボリシェヴィキ独裁と同一視される限りでは、恐らく正しいであろう。ボリシェヴィキが体系的なテロルのキャンペーンを始めた一九一八年の夏までに、彼らが、自分たちの組織以外のあらゆる住民層から拒否されていたという証拠には、全く事欠かない。このような状況のもとでは、「容赦のないテロル」が、体制を保持する、まさに唯一の方法であった。

 このテロルは、「容赦のない」ものであるのみならず(「情け深い」テロルといったものを考えることができるだろうか)、無差別でなければならなかった。もし、ボリシェヴイキに敵対するものが、少数であると確定されるならば、彼らは外科的な除去の標的とされたであろう。しかし、ソヴェト・ロシアで、少数派を成したのは、体制とその支持者たちであった。権力に留まるためには、彼らはまず初めに、社会をアトム化し、ついで、そこで独立して行動しようとする意志そのものを破壊せねばならなかった。罪のない人の処刑に何ら良心の苛責を感じない体制のもとでは、罪を犯していないということは、生き残る保障とならないことを、赤色テロルは住民に思い知らせた。唯一の望みは、何が起ころうと宿命論的に受け入れるとともに、自己を全く消し去ることにあった。ひとたび、社会が、各々が人目を引くことを恐れ、もっぱら肉体的な生存にのみ関心をもつ人間のアトムの寄せ集めへと分解したならば、その時は、誰が何を考えようと問題ではなくなる。何故ならば、政府が、公的な活動の全域を独占するからである。このような状況のもとでのみ、数十万の人が、一億、あるいはそれ以上の人々を服従させることができたのである。しかし、そのような行為は、それを実行した人々には、安くつくものではなかった。ボリシェヴィキは、彼らが従えた圧倒的多数の人々の希望に反して権力に留まるために、見る影もない程に権力を歪めざるを得なかった。テロルは共産主義を救ったかもしれないが、しかし、それは、全くその魂を腐食させたのであった。(リチャード・パイプス 著『ロシア革命史』 234~236頁)

(引用終わり)

 ここで注釈させてもらうならば、「テロルが共産主義を救ったかもしれないが、しかし、それは、まったくその魂を腐食させたのであった」ということは、もしテロルの必要のない条件があったならば、その魂は腐食することはなかった―とも解釈出来そうである。しかし、後でまた詳しく検討するようにテロルは共産主義の本質的な属性なのである。そして、肝心なことはその規模と期間である。これがどれほど巨大で長期にわたるかはまた、検討の対象になるだろう。すなわち腐食は潜在されていたものが、顕在化したに過ぎないのである。

(次回に続く)

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