共産党のテロの始まり-「パパ、ぼくにもやらせて」

(前回の続き)

  メリグーノフの著作から

 ここでは赤色テロルのさらに詳しい具体的な側面をメリグーノフの著作『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)』から引用して、検討してみたい。というのは、一般的に今までスターリン時代のテロルはかなり頻繁に取上げられてきた。これはいうまでもなく、1956年にフルシチョフによる「スターリン批判」から、スターリンの弾圧、テロルが当のソ連共産党自身によって公表されたからである。これによって、「レーニンは正しいが、スターリンは誤っていた」というひとつの広い見方が流布されていった。例えばソ連の反体制知識人であるロイ・メドベージェフの著書『共産主義とは何か』などでスターリンの圧政が弾劾されることになり、スターリン時代のテロルはソ連崩壊以前からかなり知られるようになったのである。しかし、社会主義革命の英雄であるレーニンに関しては、そのような追及はあまりなされなかったようである。レーニン時代のテロルを書いたり、話したりする人がいても、黙殺されたり、無視されたりすることが多かったようである。メリグーノフの著書もその中のひとつとみなされるだろう。メリグーノフは実際に人民社会主義の党員であり、10月革命後、反ボリシェヴィキ闘争に関わり、チェーカーによって再三逮捕された。20年に死刑判決を受けたが仲間の社会主義者の尽力によって釈放された。そこに書かれてあることは、まさにすさまじいテロルであり、それはまたスターリン時代とは違い、内戦中あるいは内戦の後であったために公然としたテロルになっていた。この本を読むとレーニン時代とスターリン時代のテロルは完全に繋がっているということがわかる。

 日本のマスメディアにおいては以前にも述べたように、共産党のテロルはほとんど取り上げられる事はない。スターリン時代のテロルについてはドキュメンタリー番組などで、ごくわずかに触れられたのを見たことがあるが、レーニン時代のテロルについてはほぼ絶無といってもよいのではないだろうか。ナチスのホロコーストに比べてどれだけの隔たりがあるかはわからないだろう。この問題はこれ以降、深く追求していくことになるが、実際にどのように行われたかを具体的に示す事は必要だと思われるので、ここでもかなり長く引用することにしたい。長すぎると感じたり、苦痛に感じたりする方は色文字の引用部分を飛ばして読んでいただきたいと思う。ここに示されたこともレーニン時代のテロルの一部に過ぎない。

 一八年になると死刑はツァーリ体制でも達しなかったような範囲にまで復活した。そのようなものが「革命権力」の懲罰機関システム化の最初の成果であった。基本的人権とモラルの軽視に沿って中央は前進し、その実例を示した。二月二一日に、ドイツ軍の侵攻に関連し、特別声明によって「社会主義の祖国」が危機に瀕していると宣告され、同時にもっとも広汎な規模で死刑が実際に導入された。「敵側エージェント、投機人、押し込み強盗、無頼の徒、反革命アジテーター、ドイツのスパイを犯罪現場で銃殺する」

 一八年五月にモスクワのいわゆる最高革命裁判所で裁かれたシチャスヌィ艦長事件ほど、言語道断なものは稀である。シチャスヌィ艦長はバルト海でロシア艦隊の遺棄船をドイツ分艦隊へ引き渡すのを救い、クロンシタットに曳航した。それにもかかわらず、彼は反逆罪で告発された。告発は次のように申し立てられた。「英雄的偉業をなしたシチャスヌィは、それによって名声を作り上げ、以後反ソヴェト権力にそれを利用しようと企てた」という。シチャスヌィを非難して、主要証人としてただ一人トロツキーが立った。五月二二日に「バルト艦隊救助の罪で」シチャスヌィは銃殺された。この判決により、司法による死刑も確立された。この「冷血な殺人という血まみれの茶番」は、社会民主党=メンシェヴィキのリーダーであるマールトフから、労働者階級に訴えるはっきりとした抗議を引き出した。だが当時はそれに大きな反響はなかった。というのは、マールトフと彼の同志の政治的立場は、今後発生する反革命に抵抗するためボリシェヴィキと共同行動を訴えるのが、その時の最終目的であったので。(メリグーノフ著『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)』 56、 57頁)

 このような実例は、まるでスターリン時代そのものである。これがすでに1918年5月という時点で起こっているのである。しかも、その証人に立ったのがトロツキーだということは、後にスターリンによってソ連を追われ、暗殺されることになった運命と重なってこないだろうか。スターリン時代に感じる特質は、すでに10月革命直後から生じていたのであり、それは日を追うごとに強くなっていったのである。

 ヂェニーキン以後

 ・・・これらの惨劇も少なくとも犠牲者の数では、内戦終了後に南部で起こったことに比べると見劣りする。ヂェニーキン権力は崩壊した。新権力が樹立され、それとともに復讐によるテロルで血の川ができた、単に復讐のために。これはもう内戦ではなく、積年の敵の繊滅であった。これは未来に向けて怯えさせる行為であった。ボリシェヴィキはオデッサで二〇年に三度登場する。毎日一〇〇人か、それ以上の銃殺が行われた。死体がトラックで運ばれる。『最新ニュース』編集局が受け取った私信は次のように伝えている。「われわれは火山の上で生きているようだ。毎日市内のあらゆる地区で反革命家の張り込み、捜索、逮捕が行われている。家族を破滅させるには、義勇軍に入ったことのある肉親が家族にいることを誰かに通報すればよかった。そこで家族全員が逮捕された。昔と違い、ボリシェヴィキは銃殺した者の名前を公表することもなく、犠牲者を速やかに処刑している」。オデッサの実情に非常に精通した『全般状況』のコンスタンチノープル特派員レオニードフは、一連のルポルタージュ、「何がオデッサで起こっているか」の中で、それにわれわれは再び触れることになるが、この頃のオデッサでの激動する実態を描いている。彼の言葉によれば、銃殺された者の数は、公式資料によれば七〇〇〇人に達する[原註]。一晩に三、四〇人が、ときには二、三〇〇人が銃殺されている。個々に銃殺するにはあまりにも犠牲者が多いため、このとき機関銃が活躍する。監房全部から引き立てられて一人残らず銃殺されたために、当時は銃殺された者の名前も公表されていない。これは誇張されているだろうか。その可能性もあるが、ドニエプルを渡河するのをルーマニアに認められず、ブレードブ将軍の軍にも参加できず、ルーマニア国境で捕らえられた将校全員が銃殺されたように、これもまったくありそうである。その数は一二〇〇人を数えた。彼らは強制収容所に収監され、次々と銃殺された。[二一年]五月五日にこれら将校の大量銃殺が行われた。『イズヴェスチャ』にも宣告された、間近に迫る銃殺についての報道をどうしても信じたくない。夜に教会で「弔いの」音が響いた。この報道の記者によれば、一連の僧侶がこの罪を問われ革命裁判所に呼び出され、五年から一〇年の強制労働の判決を受けた。

 ボリシェヴィキを裏切ったガリチ[ドニエストロ河畔の都市]住人への懲罰がそのときに行われた。チラスポリ守備隊は全員が銃殺された。すべてのガリチ住人が裏切ることを考え、オデッサから後送する命令が出されたが、彼らが荷物を持って妻や子供を連れて貨物駅に集まったとき、機関銃が彼らを銃撃した。『イズヴエスチャ』には、プロレタリアートを裏切ったガリチ住人は怒り狂った群衆の犠牲となったとの報道が載せられた。

 [原註]「住民は犠牲者を一万から一万五〇〇人と見ている」と、特派員はつけ加える。もちろんこれは日常的噂であり、この世上の風聞は殺害された実数を確定するには役立たない。同じ「全般状況」の別の特派員P・スロヴツォーフは銃殺された数を著しく少なく見積もっている(二一年五月三日)。コムソモール協議会で行った県チェーカー議長ヂェイチの報告資料を引用し、筆者は二〇〇〇人の数字を挙げる。彼は、「多分この数字は実際より少ないであろうが、闇の部分を推定することはでき、殺された数はほぼこのようであろう」と、指摘する。まず問題は県チェーカーの資料の日付にある。例えば、ヂェイチは二一年七月から活動を開始した。オデッサ・チェーカーの報告書だけでも二月までに銃殺された者は実際に一四一八人を数えた。*一八年七月三〇日づけ布告により、教会の鐘を鳴らしたりして人を集めるのは処罰された。

 銃殺はクリミア占領後もまだ続く。「わたしの取材相手は異口同音に一一九人の銃殺された者の名簿が公表されたのは[二〇年]一二月二四日以後ではなかったと断言している」と、特派員は伝えている。実際この日に三〇〇人以上が銃殺されたと、風聞はいつものように根拠がないわけでもなく執拗に囁かれる。これは反革命的ポーランド組織に荷担した罪による銃殺であった。「ポーランドの陰謀は」「失業していた」チェキスト自身によって煽られたと、一般に認められている。さらに「ヴラーンゲリの」陰謀が続く(スパイの罪で「三一人」、貿易汽船会社職員六〇人が銃殺された)。

 ボリシェヴィキはエカチェリノダールにいた。監獄は超満員であった。逮捕者の大部分は銃殺された。エカチェリノダール住人は、二〇年八月から二一年二月までにエカチェリノダール監獄だけで約三〇〇〇人が銃殺されたと、確信している。

 「銃殺がもっとも頻繁であったのはヴラーンゲリ陸戦隊がクバニに上陸した九月である。このときチェーカー議長は、「チェーカーの監房[の囚人]を射殺せよ」と命じた。尋問前の収監者が大勢いて、彼らの多くは夜八時以降の外出禁止令に違反した罪でたまたま拘束されただけであると、チェキストの一人、コソラポーフは反対意見を述べ、「彼らを選別し、残り全員を始末せよ」と回答があった。

 命令は正確に遂行された。銃殺から九死に一生を得た市民ラキチャーンスキィはその遂行のおぞましい光景を描いている。

 「逮捕者が一〇人ずつ監房から連れ出された。最初の一〇人が引き出されたとき、彼らを尋問に連れて行くのだと聞かされ、われわれは安心した。だが次の一〇人が連れ出されるときには、銃殺に連れ出されることがはっきりと分かった。屠場で家畜を殺すように殺された」と、ラキチャーンスキイは述べている。撤収の準備でチェーカー書類が荷造りされ、銃殺は所定の手続きなしで行われていたので、ラキチャーンスキイは助かることができた。「殺害に連れ出された者は何の罪かと質問されたが、外出禁止の八時以後にエカチェリノダールの通りにいてたまたま捕らえられた者はほかの者と区別されることを思いついて、将校として告発されたラキチャーンスキイは、自分もたまたま遅くに通りに出て捕まったのだと申告して、難を逃れた。トップに立つチェーカー議長を含めてチェキストのほとんど全員が銃殺に携わった。獄舎ではアタルベーコフ[チェーカー特別全権]が銃殺した。銃殺は幾晩も続き、監獄周辺の住民を恐怖に陥れた。この日に全部で約二〇〇〇人が銃殺された。

 誰が何の罪で銃殺されたかは、秘匿された。チェキスト自身がおそらくこの報告書を出すまい。というのは、仕事として、サディズムとしての銃殺は、彼らにとって特別な手続きなしに行われる日常茶飯事であったので。…」

 さらに銃殺が行われた。一〇月三〇日に八四人、一一月に一〇〇人、一二月二二日に一八四人、一月二四日に二一〇人、二月五日に九四人と。これらの事実を確認する文書もある。エカチェリノダール・チェー・カーは監査を目前にしてそれらを破棄した。「「銃殺せよ」と明記された判決が束になっているのを、われわれは便所で見つけた」と、同じ目撃者は証言する。さらにこの時期のエカチェリノダールの日常的光景を引用しよう。「八月一七日から二〇日のエカチェリノダールにおける日常生活は、コサック村付近に上陸したヴラーンゲリの黒海沿岸陸戦隊の市内への接近によって破られた。パニックの中で特別全権アタルベーコフの命令により、県チェーカーと特別部の全逮捕者、および監獄の全収監者が銃殺された。その数は一六〇〇人を超えた。県チェーカーと特別部から、虐殺の運命にある者が一〇〇人ずつかたまって橋を通ってクバニに連行され、そこで息の根を完全に止めるまで機関銃で銃撃された。監獄においてもその壁の前で同じことが実行された。このことは公表もされた。「報復」と見出しをつけ、殺害された者の名簿が公表された。実際よりもいくらか少ない数が名簿に記載された。潰走の中で征服者[ボリシェヴィキ]は労働者に、自分たちとともに撤退する義務を宣告した。そうしなければ、戻ってきたなら残留者全員を電柱に吊すと脅した」

 *九月二九日に、ヴラーンゲリ陸戦隊の上陸によって北カフカースの匪賊運動は活発になり、割当徴発は停止したとの現地からの電報を受け取った食糧人民委員部全権により、この電報は食糧人民委員代理を通じてレーニンに届けられ、狼狽したレーニンは彼に、「密かに」この電報をトロツキーに回覧するよう指示した。

 同様なことがヴラーンゲリの脅威に晒されたエカチェリノスラフからの撤退の際にも生じている。本質的にこれと同じことが常に起こっている。ヴィンニツァとカメネツ=ポドリスクからソヴェト軍が撤退し、ウクライナ執行委の『ハリコフ・イズヴェスチャ』に二一七人の銃殺された人質名簿が公表され、その中には農民、一三人の国民教育教師、医者、技師、ラヴィ、地主、将校が含まれる。ほかに誰がいるだろう。もちろん、侵略軍も同様なことを行っている。後日赤軍がカメネツ=ポドリスクを占領した際に、八〇人のウクライナ人が銃殺された。一六四人の人質が捕らえられ、地の果てに送られた。

 同じく『革命ロシア』特派員は、ロストフ=ナ=ドヌにおける新権力の最初の数ヶ月間の活動を描いている。「ブルジョワジーを、商店とおもに協同組合倉庫を、……公然と容赦なく掠奪している。街路で、将校の家で、殺害し斬り殺した。…タガンローグ大路とテメリツカ通りで重傷患者と肉体的に動く力もない重篤の将校がいる陸軍病院が放火され、そこで四〇人が焼き殺された。……全部で何人が殺され、斬殺されたかは知るよしもないが、それでもこの数字は少なくない。ドンでソヴェト権力が強化されるにつれ、次第にその活動の方法が見えはじめた。まず怪しいコサック全員が捕らえられた。ペーテルスに鼓舞され、チェーカーが活動を開始した。銃撃音が聞こえないように、二機の発動機が絶え間なく動いていた。……まったく頻繁に自身(ぺーテルス)がコサックの処刑に立ち会っている。……束になって銃殺された。一晩で銃殺された者が九〇人になったこともあった。八、九歳の彼の息子は彼にまとわりつて、いつも「パパ、ぼくにもやらせて」とせがんでいると、赤軍兵士たちは語っている。……」

 チェーカーとならんで、革命裁判所と革命軍事評議会が活動し、それらは被告を「戦争捕虜」としてではなく、「煽動者と匪賊」として審理し、何十人と銃殺している(例えば、ロストフでのスーハレフスキイ陸軍大佐、エカチェリンブルグのコサック、スネギレーフ、トゥアプセ[スタヴロポリ県]での学生ステパーノフ事件など)。

 そして、再び不幸なスタヴロポリ県で、逃亡した夫を密告しなかった罪で妻が銃殺され、一五、六歳の子供と六〇歳代の老人たちが処刑されている。……機関銃で銃殺され、ときには軍刀で斬り殺されている。ピャチゴルスク、キスロヴォドスク、エッセントゥーキ[いずれも北カフカース]で毎晩銃殺が行われている。「血には血を」の見出しの下に名簿が掲載され、その犠牲者はすでに二四〇人を超えているが、その下に「名簿は続く」と書かれている。これらの殺害は、ピャチゴルスク・チェー・カー議長ゼンツォーフと軍事コミッサール・ラーピンの暗殺に対する報復として行われる(彼らは「自動車に乗車中に」騎馬兵のグループに殺害された)。

 ヴラーンゲリ以後のクリミア

 ヂェニーキン権力の崩壊後の数ヶ月はこのように過ぎた。ヂェニーキンの後にヴラーンゲリが続いた。ここでは犠牲者数はすでに数万を数える。クリミアは「全ロシアの墓場」と呼ばれた。われわれはクリミアからモスクワに到着した大勢から、何千もの犠牲者について聴いた。五万人が銃殺された、と「人民のために』(一号)は伝えている。犠牲者のほかの数字は一〇から一二万、さらには一五万を数える。どの数字が現実と合致しているのかをわれわれはもちろん知らないが、それは指摘されているよりはるかに少なくともよいではないか[原註]。そのことが、総司令官フルーンゼにより「恩赦」を与えられた人々への処罰の残虐さと恐怖を本質的に減ずることになろうか。ここで有名なコムニストでありジャーナリストのクーン・ベラが活躍し、彼は次のように声明するのをいとわなかった。「一人の反革命家もいなくなるようなクリミアにしなければならないと、同志トロツキーは語った。クリミアは一人の反革命家も飛び出せないような瓶である。クリミアは三年間革命運動で後れを取ったので、それを速やかにロシアの全体的革命水準に引き上げよう。……」

 [原註]H・C・シメリョーフはローザンヌ裁判で、一二万人の老若男女が銃殺されたと証言している。シーピン博士の証拠に基づき、彼は当時の公式ボリシェヴィキ報道は銃殺された数を五万六〇〇〇人と確定したと断言している。(メリグーノフ 著『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)』 88~94頁)

 『まったく頻繁に自身(ぺーテルス)がコサックの処刑に立ち会っている。……束になって銃殺された。一晩で銃殺された者が九〇人になったこともあった。八、九歳の彼の息子は彼にまとわりついて、いつも「パパ、ぼくにもやらせて」とせがんでいると、赤軍兵士たちは語っている。……』タイトルにある「パパ、ぼくにもやらせて」はこの部分を取り上げたものである。この本を読んである意味、最も衝撃を受けたのがこの部分である。チェーカーの八、九歳の子供が銃殺現場にいて、機関銃の引き金を僕も弾きたいとせがんでいるのである。殺人がごくありふれた子供の遊びとなっている。この子はどのような大人に成長するのだろうか-

 ロシア革命の推移

 続いて、イデオロギーと経済の側面からロシア革命の推移を考察していきたい。これがテロを生み出す背景になるものである。当然テロはイデオロギーから生み出されているが、この共産主義イデオロギーは経済と一体化しているために社会生活の隅々まで浸透していく。テロの雰囲気は日常的なものになっていくのである。

 ・・・最も重要なことは次のことであろう。ボリシェヴィキは社会主義経済計算論争の対象となった計画経済を目的として革命を起こしたわけではない、ということである。 ボリシェヴィキの革命の目的は 、言うまでもなく唯物史観におけるプロレタリアート独裁から共産主義社会に向かうためのものである。本論(マルクス主義の解剖学)における完全な兼任を実現することなのである。

 プロレタリアート独裁は経済の分野では当然、労働者自主管理となる。その結果どうなったか ー経済は壊滅的機能不全状態となり、ボリシェヴィキはその状態に対応を迫られることになった。労働者が好き勝手に部品を製造しても全体を統制する頭脳労働がなければ、それは何もしていないよりも悪い状態になる。もちろん、その時はボリシェヴィキも労働者も身体労働と頭脳労働の完全な兼任が必要などとは全く考えていなかったのである。その完全な兼任の不可能性を証明したのが本論である。このままではボリシェヴィキもロシア社会も破滅してしまう。そこで急遽、官僚やブルジョワ専門家が再登用され、上意下達式の厳しい指令経済が始まった。それが社会主義経済計算論争の対象となる計画的指令的経済が構築されていく端緒なのである。それが始まったのは革命からわずか5ヶ月後のことである。すなわち、本来のプロレタリアート独裁から共産主義社会に向かう試みがなされたのは、革命後わずか5ヶ月間に過ぎない。そして、それは二度と試されることはなかったのである。

 一度、計画経済が構築されてしまえば、プロレタリアート独裁など入り込む余地は全くなくなる。だから、トロツキーは計画経済の構築を始めた当事者でありながら、プロレタリアート独裁に未練を持ち続け、スターリンに追われた後、「労働者による第2革命」などと言い出したのである。すなわち、ソ連の計画経済とは最初からの目的ではなく、唯物史観の文字通りの実践が失敗に終わり、緊急避難した状態だということである。

 唯物史観の社会主義と計画経済の社会主義

 ここでどうしても社会主義という用語の定義の曖昧さを問題にしなくてはならない。これは非常に多義的であり、様々な使われ方をしている。そして定義が曖昧なまま使われ続け、混乱をきたしているように思えるのである。ここで問題にしたいのは、唯物史観における社会主義と計画経済における社会主義という用語の使われ方である。唯物史観においては共産主義革命が起こり、プロレタリアートが 独裁する過渡期があり、それから無階級社会である共産主義社会へ至るということになっている。ところがマルクスは共産主義社会の前段階として社会主義の段階がある、とも言っている。これがまた曖昧であり抽象的である。プロレタリアート独裁とこの社会主義社会との関係もどうなっているのかよくわからない。しかし、共産主義社会の前段階ということは無階級社会への志向を持っていることは明らかである。一方、計画経済においても社会主義という言葉が使われているが、こちらは中央当局による計画的指令的経済であり賃金の平等や完全雇用を重視しているだろう。しかし、唯物史観の社会主義とは決定的に異なる点がある。計画経済はそれ自体において、無階級社会への志向性を持ってはいない。むしろ中央当局の統制による、ということは階級制は固定化、強化されさえするだろう。つまり、唯物史観の社会主義と計画経済の社会主義は別物とみなした方がよい。

 ところが、多くの犠牲を伴い達成された革命が実は失敗して緊急避難した経済が計画経済だ、ということをボリシェヴィキは決して認めることができない。そのようなことを認めれば自らが破滅してしまうだろう。「共産主義社会への試みは失敗しました。今の計画経済は緊急避難したものです」などとボリシェヴィキが言うはずはないのである。そして、好都合なことに唯物史観の共産主義社会の前段階として社会主義社会があり、計画経済も社会主義とみなされている。そこで唯物史観の社会主義を計画経済の社会主義にすり替えたのである。そしてこれが共産主義社会に向かう前段階の社会であると宣伝したのであり、世界はそれを真に受けてきたのである。

 だから、ソ連の社会主義計画経済を唯物史観からの逸脱とみなす論調は至る所に現れてくる。ソ連= 国家資本主義論などもその一つである。大半の共産主義者が社会主義経済計算の問題に無関心になれるのもこれが理由である。つまり、自分達は失敗しない、自分たちがやれば完全な兼任を達成できる、共産主義社会への道を歩むことができると考えているのである。

 レーニンの変遷

 唯物史観の文字どおりの実践が失敗に終わった革命後の状況に対する見方と、革命以前にはどのように考えていたかという事の違いを比べてみると、誰しもが唖然とするしかないレーニンの変遷を見ることができる。

 したがって、理論家であるとともに実践家でもあったレーニンにしてからが、革命直前の諸論文のなかでは、その後の社会主義建設の実情から見るなら、ほとんど荒唐無稽な夢想の観がある一連の構想を書きつづっていたのは不思議ではない。1917年の10月革命が成功する2ヵ月前に、彼は『国家と革命』でこう認めた。

 「資本主義的文化は、大規模生産、工場、鉄道、郵便、電話その他を造り出した。そしてこの土台のうえで、ふるい《国家権力》の機能の大半は、非常に単純化され、記帳、登録、照合といったもっとも単純な作業に還元されうるので、これらの機能は、読み書きのできるものなら誰にでも、完全にやりうるようになり、またこれらの機能は普通の《労働者賃金》で完全に遂行されうるようになり、これらの機能から何らかの特権的な《お役所風》なものの一切のかげをとり除くことができる。例外なしに、すべての公務員の完全な選挙制および随時の解任制、彼らの俸給の《労働者賃金》への引き下げ―すべてこれらの簡単で《自明な》民主主義的諸方策は、労働者と農民の多数との利害を完全に結合しつつ、同時に資本主義から社会主義への橋わたしの役割を果たすものである」。

 資本主義文明の発達と成熟は、高度の工業社会を造り上げることによって、社会主義のための物質的条件を用意するだけではない。同時に「万人」が実際に国家行政や社会主義企業の運営に参加できるような前提条件をも生み出す―これこそが、レーニンの内奥の信念であった。「このような前提条件に属するもの」として、彼は先進資本主義国において実現されている一般義務教育と、「郵便、鉄道、大工場、大商業、銀行事業などのような社会化された大規模の複雑な装置による幾百万の労働者の教育および訓練」とを指摘した。こうした諸条件が満たされている以上、「資本家および官僚を打倒して、生産と分配の統制、労働と生産物の計算の仕事において、武装労働者、1人のこらずの武装人民をもって(打倒された資本家と官僚に)取り替えるのは、直ちに、今日明日にでも、充分に可能である。・・・・・すべての市民は、ここでは武装労働者からなる国家に雇われた事務員に転化する」。

 当時レーニンがどんなにナイーヴであったかは、革命のわずか2週間ほど前に書いた論文、「ボリシェヴィキは国家権力を保持するか」においても、いかんなく発揮されている。彼はこう書いた、「ロシヤはわずか24万人のボリシェヴィキ党員によって、貧民大衆の利益のために、富者のためでなく、統治することはできそうにない、と人は言う。だがわれわれは一挙に国家機構を10倍に増大するための《魔法の手段》をもっているのだ。それは資本主義国家がもたなかったし、またもちえなかった手段である。この魔法とは、労働者、貧民を国家統治の日常的な業務にひき入れることなのだ」。ポリシェヴィキだけが握っているこの「魔法の杖」を一振りとすると、どのような状況が現われるであろうか?これについてもレーニンは具体的な情景を描いている。要するにそれは、成人男女の大衆すべてが、古代ポリスの市民さながら、融通無碍にある時は警官に、ある時は執達吏に、ある時は裁判官に、ある時は企業経営者にと姿をかえる情景なのだ。この時代のレーニンの著作は、下からの大衆の自発的な創造的エネルギーをほとんど盲目的に信頼し、それに依拠する点で、きわめて濃厚なアナルコ・サンジカリスト的色彩を帯びている。「労働者管理」というスローガンは、レーニンにとっても、アナルコ・サンジカリストにとってと同様に、社会主義社会と国家経済運営上の一切の政治行政的問題を解決する魔法の杖であった。

 10月革命直後に、レーニンが「労働者管理条令草案」を認め、その第一条に、「労働者および勤労者合わせて5人以上の、あるいは年間取引高1万ルーブル以上の、すべての工業、商業、銀行、農業およびその他の諸企業において、すべての生産物および原料の生産、保管、売買に関して、労働者管理を実施する」と書いたのは、このような楽観的精神においてであった。そこにはまた大衆のアナーキスト的ムードを吸収し、それに依拠して革命の権力を掌握維持しようと企図する戦術的考慮もはっきりと表現されている。実際、革命直後に労働者たちは、政府の法令をまつまでもなく、資本家たちを逐い出して工場施設を次々と占拠していた。従ってレー二ンは、このような労働者たちの下からの自然発生的な意識と行動に事後承認を与えたわけである(勝田吉太郎『知識人と社会主義』94、95頁)。

 このように革命前、レーニンは極めて楽観的だったが、革命後の労働者自主管理の壊滅的機能不全状態に落胆し、その態度を180度変えることになる。

 「はたして労働者各人が、いかに国家を支配するかを知っているであろうか?実際的な人間なら、それがおとぎ話であることを、わきまえているのだ」。「あらゆる国々の歴史は」とレーニンは説いている。「労働者階級がそれ自身の独力だけでは組合主義的意識しか、つまり組合に団結し、雇傭主と闘争し、労働者に必要なあれこれの法律の発布を政府からかちとる、などのことが必要だという確信しかつくり出すことができないことを証明している。これに反して、社会主義の教説は、有産階級の教育ある代表者、インテリゲンツィヤによって生み出された哲学的・歴史的・経済的理論のなかから成長してきたのだ」。社会主義思想を生み出した主要な思想家たちの中にプロレタリア階級出身のものはほとんどいない。それは有産階級のインテリゲンツィヤによって生み出されてきたものであることは歴史の事実である。しかし、レーニンがこのように言ったとき自分の置かれていた立場、そのときのロシアの状況がこれら先行する思想家たちのいかなる立場とも、さらに革命前の自分の置かれていた立場とも、まったく異なるものになっていたということをどれほど自覚していたのだろうか?すでに、レーニンとボリシェヴィキはルビコン川を渡っているのである―此岸にいるのではなくすでに彼岸への橋を渡り始めているのである。社会主義革命はすでに現実のものとなったのであるから、社会主義の教説の通りに事態が進行するかどうかが最重要事である。しかし、現実にはまったくその通りにはならなかった―プロレタリアートは主役にはならなかったのである。そのことの理由として以上のようなことを持ち出すというのは信じ難い自己欺慢である。これでは社会主義の教説が誤りであったということを自ら認めているようなものである。社会主義、共産主義思想とは一部のインテリゲンツィヤが労働者階級に投影した自己の観念、願望、イメージでしかないことを暴露しているようなものである。

 ところが、革命という賭けに出てそれが成功した以上、もう絶対に後戻りは出来ないのである。ボリシェヴィキは権力を維持していく以外に生き残る道は残されてはいない。このことは肝に銘じておく必要がある。クーデターが成功して権力を獲得し、立憲民主党、貴族、ブルジョワジーらを直ちに弾圧、追放し、憲法制定議会を強制解散し、ニコライ二世とその家族を抹殺し、内戦によってロシア全土を戦場と化し、戦争とテロによって膨大な犠牲者を生み出しながらその権力を保持することに成功したのである。それはすべて社会主義、共産主義の大義のためであった。これが根本的に誤りであったなどということになれば、レーニンとボリシェヴィキは大衆に、そして味方である共産党員からも八つ裂きにされてしまうだろう。しかし、いまや社会主義の正当な主張をする者を徹底的に押さえ込まなくてはならなくなったのである。

 プロレタリアートに対する独裁をプロレタリアートの独裁と詐称せざるをえなくなっている。この時からボリシェヴィキの権力主体が「プロレタリアート独裁」といった時には、それは実質的には「プロレタリアートに対する独裁」を意味するものでしかなくなったのである。そうしなければ、自らが存在することすら出来なくなる―これはまったく震撼すべきことである。この状態は誰がどう見てもプロレタリアートの独裁などではない。民主主義、言論の自由という見地からすれば、もはや風前の灯火である。誰もが当然と思えるような状態をその通りに表現すると、権力は存在することが出来なくなってしまう。それは権力にとっての破滅を意味している―しかし、権力は秘密警察という強力な権力装置をもっているのである。秘密警察による言論弾圧、民主主義の抑圧は当然の論理的帰結であることがわかる。そしてさらにイデオロギーの理念からその矛盾は増幅されるだろう。社会主義、共産主義とはまさに民主主義の徹底した形態だからである。ボリシェヴィキの権力主体はいかなる強制力を持ってしても、その強制力で言論弾圧、民主主義が抑圧されているなどということを表現させてはならない。それらは十分に満足させられている、ということでなければならないのである。それは単に上辺だけのものであってはならないだろう。心の底からそのように思いこませなくては不十分である。社会構成員の心の底まで制御しなくてはならない―全体主義への道は開かれたのである。

(次回に続く)

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ひろびろ
2020年03月17日 16:18
 なんとも凄まじい、途中読むのをやめて出典の本の検索をしてしまいました。Amazonで売ってますね。失礼、偽書かとも思ったりして、参照文中千人単位で自国民が捕えられ銃殺される。子供がその銃の引き金を引かせろとねだる。悪い夢見てるような、でもこれはソ連の、革命の渦中にあった人が書いたものなんですね。

 若い頃政治的にノンポリで知識もなかったんですが時代の空気として左掛かった雰囲気の中本を読んで何となく感じていたのは、スターリンは悪かった、レーニンは悪くなかったという見方。そんなもんかと一つの知識として認識していましたが、事実はここに書いてある事なんですね。

 左翼層は戦前の国家主義、ムッソリーニ、ヒットラー、東条と並べて熱狂的愛国独裁と片付けたがるけれど、ここに書かれている事こそ狂気の、何というか愚かさの加わった蛮行「お前が云うな」と投げ返したくなりますね。自身を正当化するために云ってるような匂いがします。

 オデッサの虐殺、オデッサの階段の虐殺、戦艦ポチョムキン、エイゼンシュタインは1925年にこれ製作して、という事はソ連の宣伝映画のわけで、蜂起する民衆、これを無差別に射殺する政府軍。実際はレーニン以下ボリシェビキがワケの判らん殺害を自国民に対し行っていたんですね。

 そうした事実があるにも拘わらず表に出て来ない。ソ連の愚かな謀略が隠されている。これは他の共産国家に於いても同じなんでしょう。

 読んでて思い出した事があって、子供の頃「ボリスの冒険」という本を読んで、ボリスってのは少年で、同年代の子が荒んだ混乱の中を生きていくというストーリーでした。細部はもう忘れていますが、放浪の中でこの少年は拳銃を手にするんですね。あれはワルサーだったような気もしますが、少年が拳銃を持ち生きていくというシチュエーションが格好良くて憧れました。

 今思うとこれはロシア革命時の混乱を描いていて、昭和30年代に翻訳され本になっていると云う事は矢張りソ連を批判した文学では無かったんでしょう。講談社の少年少女文学全集の中に入ってた小説です。

 ブログに書かれているような事実、例えば堤清二なんかは知ってたんでしょうか。戦後インテリの共産主義への傾倒は何だったんでしょう。意外と底の浅い憧れでしかなかったのかも知れませんね。

 続くとあるのでまた期待。 
イオンのバベル
2020年03月17日 20:51
ひろびろさんへ

メリグーノフのこの本をAmazonで久々に見てみました。 2010年に購入済みと出ています。 10年前にAmazonで買ったのか-と思い返しました。 3,500円出してこのような本を買う人はあまりいないでしょうね。ロシアの研究者などでしたら別ですが。共産主義やソ連関係の本は200冊以上読んだと思います。今の日本とあまりにもかけ離れた社会なので感覚がついていきません。しかし、プロパガンダの渦巻く世界というのは日本も同じであり、共通するところもあるでしょうね。

「ボリスの冒険」というのは知りませんでしたが、世界文学全集の類は私も子供の頃ずいぶんと読みました。そういえば小学校の図書室にあったロシア革命に関する本を少し見たときに、よくあるレーニンの写真が載っていました。その時、異様な不気味な感じを受けて、ロシア革命関連の本などは手に取らなくなった覚えがあります。その時読むべき本ではなかった、ということだったのかなと今では思いますね。

堤清二の話ですが、インテリの共産主義への傾倒は戦前から強かったようです。マルクスの著作は引き込まれるような魅力があるというのは分かる気がします。その魅力は麻薬のようなもので、共産主義に引き込まれると都合の悪い事実は見なくなる、というのは全員に当てはまる気がします。カルト宗教の信者と全く同じですね。それが社会的には高い地位にあったり、エライ肩書きを持っていたりするので、みんな騙されてしまうということもあるでしょう。

ソ連共産党のテロは時間の経過とともに発展しながら継続していくので、その辺の事も書いてみようかなと思っています。コメントありがとうございました。