マルクスに共産党のテロの責任はあるのか?分かりやすい「共産党宣言」の問題点


 これまで述べてきた共産党のテロについて、その共産主義の創始者たるマルクスにどれだけの責任があるのか、ということを検討してみたい。このことに関してマルクスの著作の中で最も重要なものは「共産党宣言」と「資本論」であるだろう。もちろん、他にも多くの著作があるわけだが最も有名であり、ロシア革命を生み出した原動力はこの2冊に負うところが大きいと考えられる。しかし、 「資本論」は高度で難解であり、長い論考が必要になる。ここではよりわかりやすい「共産党宣言」を題材にして、この問題を考察してみたい。

 唯物史観からの逸脱

 マルクス主義の側からの「現存社会主義の責任はマルクス主義にはない」という解釈の最も有力なものが、この「唯物史観からの逸脱」ではないかと思われる。これは歴史的にみてもかなり以前から・・・例えばボリシェヴィキに対抗したメンシェヴィキもこのような主張につながる立場をとっている。その意味で、特にこの見解は現代マルクス主義特有のものではないのだが、その重要性から詳細に検討するに値するものだといえるだろう。また、最近でも『共産党宣言』関係の出版物の出版はかなり盛んである。これらの背後には次のような意図があるのではないかと思われる。一般的にも読みやすい『共産党宣言』には、資本主義社会の行き詰まりや窮乏化、二極化から社会主義革命の勃発、共産主義社会に至る大まかな見取り図が描かれてある。このこととロシア革命から現存社会主義が形成された状態とを比べてみれば、その本質的な違いはよく分かるということなのである。これは公然といわれることは極めて少ないが、マルクス主義を擁護しようとする者にとって、この論点は極めて重要であろう。

 「マルクスの『共産党宣言』などの文献を読むと、そこにはプロレタリアートとは別個の職業的革命家の集団である前衛党(共産党)が、社会主義革命を先導するというようなことは想定されていない。そもそも社会主義革命は資本主義社会が発展し、ブルジョワジーの資本蓄積が進み、勝ち残った少数のブルジョワジーとそれ以外の窮乏化が進む多数のプロレタリアートの二つの階級に分裂していき、それがある限界に達したときに自然発生的に勃発するものである。その中ではプロレタリアートの連合が形成されていき、ブルジョワジーと対抗し、闘争し、最終的には暴力的にブルジョワジーを打ち倒すのである。そして生産手段を手中にして社会的、共同体的所有とする。そして、市場を廃絶し資本制生産様式を廃止して、より合理的な生産力の高い平等な分配を可能にする共産主義の経済体制が築かれる。真の意味での無階級社会が達成される。ここでは社会の大多数を占めるプロレタリアートによって、革命は段階的に進むのであり、少数のブルジョワジーに対する暴力は規模の小さいもので済み、それも短期間で終わるだろう。このこととロシア革命における状況とはまったく異なる。まず、ロシアは資本主義の発展が非常に未熟なものであった。プロレタリアートの数は少数であり、国民の大多数は農民であった。マルクスが予測した資本主義社会が限界に達するような状況とはかけ離れていたのである。このような状況の中でレーニンは革命的前衛党というプロレタリアートの連合とはまったく異なる組織によって、戦争と自然発生的革命によって生じた権力の空白状態につけ込み、権力を奪取したのである。このような状態では少数者が多数者を支配しなければならず、その暴力は非常に大きなものになるだろう。また、その期間も非常に長くならざるをえない。赤色テロルはそのようなマルクスの理論が歪曲的に適用されてしまった不幸な例である。したがって、赤色テロルの責任をマルクスと関連づけることはまったくもって的外れである」。「マルクスの目指した社会主義、共産主義社会は偽りのブルジョワ民主主義ではなく、プロレタリアートが支配する平等で真の意味での民主主義である。暴力肯定はそこに至るまでのプロレタリアート独裁期におけるブルジョワジーとその勢力に対する過渡的なものにすぎない。社会主義、共産主義の完全な民主主義と、ボリシェヴィキの民主主義を抑圧し自らに権力を集中する独裁との間には何の共通点もない。これはまさに正反対のものである。このボリシェヴィキのテロルとマルクスのテロルとはまったく異なるものである」。

 それではマルクスが想定した資本主義の行き詰まり、二極化、窮乏化から社会主義革命が勃発する―そこでは革命的前衛党ではなく、プロレタリアートの連合による革命過程が進行するのである。そのこととロシア革命における状況の相違とはどれくらい本質的なものなのだろうか。これは極めて難しい問題である。マルクスの想定した通りに資本主義は進行していかなかったのだから、そもそもこの考察は無効である―このように考えてよいかもしれない。しかし、このことを考察することは極めて重要なことなのである。それではマルクスの想定した通りに二極化、窮乏化が進行したと仮定してみよう。プロレタリアートは多数者となり、ブルジョワジーは非常に少数となる。テクノクラートなどの中間層をどうしたらよいのかという問題が生ずるが、ここではひとまずおいておこう。

 『共産党宣言』ではブルジョワジー対プロレタリアートの大まかな闘争の過程が描かれている。「最初は、個々の労働者が別々に戦うが、次にはある工場の労働者たち全員が戦うようになる。その次はひとつの町の特定の産業分野の労働者全員が、彼らを直接に搾取する個々のブルジョワに対して戦う。労働者たちがブルジョワジーに対抗する連合体を作るようになる。こうした闘争の本当の成果は、その都度の具体的な成功にあるのではなく、彼ら労働者たちの組織が次第に拡大していくことにある。彼らのこの団結は、まさに大工業が生み出したコミュニケーション手段の進歩の追い風を受ける。こうした手段によって、さまざまな地域の労働者たちが直接に連絡しあうことができるのである。さまざまな地域の闘争はどこでも同じ性格を持っているのであり、連絡手段さえあれば、こうした闘争を、ナショナルの階級闘争へと纏め上げることができるのだ。だが、どんな階級闘争も政治闘争なのである。こうしてプロレタリアートは強固に団結し、まとまった強大な存在となる。そしてある地点に達すると公然たる革命として爆発し、ブルジョワジーの暴力的打倒を通じてプロレタリアートが自らの支配を打ち立てるに至る」 ―以下、共産主義社会に進展していくというわけである。これらの論述を読んでいくと、さももっともらしい印象を持つであろう。以上の中に潜む問題とは何だろうか?もっとも重要な核心は次のようなことである。最初の段階ではプロレタリアートのブルジョワジーに対する戦いは、一種の場当たり的な反抗であり、設備の焼き打ちなど反乱的であるが、次第に組織化されていき地域的な広がりもどんどん拡大していく。それは革命という合目的的な機能を持つ大きな組織になっていくのである。このような段階になれば、その機能を合理的に効率よく達成するための階層性が生じてくるのである。これは何も革命に限ったことではない。どのような目的であったとしても、それがある程度以上の高度なものであるならば、必ず組織の中に階層、階級が生じてくるのである。

 例えば、このプロレタリアートの連合が闘争ばかりしていたのでは、ということで息抜きに運動会を開催しようということになった。そのためには実行委員、その責任者、副責任者や企画、運営、書記、会計、連絡係、備品調達管理、などなどさまざまな階層性、役割を分業によって担わなければ、運動会はまったく実現されないだろう。つまり、革命というものを遂行しようという場合、以前にあった機能と同等、ないしそれ以上のものを達成しようとすれば、その革命主体は非常に高度な組織性を持たなければならず、それは必ず階級構造を持つことになるのである。このような革命の目的は、運動会よりもはるかに高度なものである。つまり、ポイントは闘争の初期段階における単純な反乱と、プロレタリアートが大規模に組織された状態とではまったく異なる、ということである。これは天と地ほどの差がある。しかし、マルクスはこれを連続した記述として示して、これがまったく異なる状態であるということを気づかれないようにしているのではないか・・・初期段階においてはプロレタリアート内部に当然、階級分化は生じていないが、大規模に組織された段階ではプロレタリアート内部に階級分化が生じてくるのである。

 革命は運動会よりも比較にならないほど、困難な大事業である。そこでは強力な組織統合が必要であり、階級構造も強いものとならざるをえない。これはまさにレーニンの取った手法なのであり、この点においてレーニンの現実主義の方が正しいのである。しかし、この仮定の中ではプロレタリアートは大多数であり、ブルジョワジーの打倒は容易であった。これはロシア革命の状況とはまったく異なるように見えるだろう。ところが問題はその次から生じてくる。プロレタリアート内部に生じた強い階級構造は、その下位の者からすれば本来の革命の目的からまったく逸脱している。そのことに対する強い不満、抵抗が生じでくるのは必至なのである。ここで次のような反論があるかもしれない。「これはロシア革命におけるような革命的前衛党が主導していたものではなく、多数のプロレタリアートの連合によって成し遂げられた革命である。革命時においてそのプロレタリアートの連合に強い階級構造が形成されていたとしても、その過渡期が過ぎれば元の無階級制に戻るはずであり、そこでは平等で緩やかなプロレタリアートの連合になるだろう。このような不満が生じてくることはないはずである」しかし、これこそが超弩級の誤謬なのである。過渡期が過ぎても階級構造が消滅することは絶対にありえない。高度な合目的性を持った組織はどのようなものであれ―資本主義の上部構造を覆そうとするプロレタリアートの連合体でもその後の経済体制においても、無階級性を実現するためには「均等割り振り」 「完全な兼任」を実現する能力が絶対必要になる。革命後の経済機能を保とうとすれば、それが資本制生産様式であっても、計画経済であっても階級構造は絶対に必要なのである。

 しかし、資本制生産様式を採用するとなれば、かつてのプロレタリアートの一部が資本家に転化するということになる。これでは何をやっていたのかまったく分らないことになるだろう。社会主義、共産主義を目指すということになれば、必然的に計画経済にならざるをえないのである。それは元プロレタリアートが官僚に転化して頭脳労働領域を担い、階級構造が形成されていくことを意味している。つまり、社会主義革命を主導するのが革命的前衛党であっても、プロレタリアートの連合体の指導部であっても本質的にはまったく同じなのである。それはまったく同じ結果へと導かれる。「それでも、そのプロレタリアートの指導部はかつての同僚だったのだから、うまくやっていけるのではないか」このように考えたとしたら、それはまったく甘い。むしろ事態は逆だともいえるだろう。このプロレタリアートは搾取される不平等な社会から、平等な分配、生産の所有ができる理想社会を目指したのである。そして苦労して、危険を冒して革命を遂行したのである。その結果として以前とまったく同じ立場にとどまってしまい、同僚だった者が階級の上に座って自分を顎で使ったとしたら絶対に我慢出来ないだろう。つまり、かつて同じ階級だった者の中に階級分化が生じ階級闘争が生じてくるのである。そしてこの階級闘争は以前よりもさらに激烈なものになっていく可能性の方が高い。

 プロレタリアートの連合体の指導部は強い権力を持ち、それを行使するための秘密警察、政治警察を持つことは必然となる。また、そうしなければ指導部は存在することが出来ないだろう。革命時においてはブルジョワジーとその勢力を弾圧、撲滅することにこの警察権力は欠かすことの出来ないものであり、大きな役割を演じる。単純な労働者の反乱だけでは、決定的な効果を発揮出来ないことは明らかである。マルクスは革命過程において、このような単純な労働者の反乱のレベルと高度な警察権力の行使の区別をまったくしていない。革命時においてブルジョワジーを弾圧した警察権力は、その後でプロレタリアート内部に生じた階級闘争に振り向けられることになる。今度は、かつての同僚を弾圧し、激烈な反抗に対してテロルで応ずるよりほかはなくなるだろう。・・・結局、同じことになるのである。プロレタリアートの連合体の指導部はボリシェヴィキとまったく同じジレンマに陥る。そしてこの内部矛盾を押え込むための強力な指導者が要請されるのである。つまり、このプロレタリアートの連合体の中からスターリンが現れてくることになる。これはそのような資質を持った人物がその中に存在するかという難しい問題があるが、重要なのはこのような指導者が要請される状況が造り出されてある、ということなのである。

 ロシア革命、現存社会主義は唯物史観からの逸脱である。したがってマルクス主義の実現の可能性はまだこれから未来に向かって開かれている―このことに対する結論も明らかである。マルクスが想定した通りの資本主義の進展、崩壊の現実性を信じる人はほとんどいないであろうし、現代的な意味での別の崩壊の可能性を考えたとしても、そのことと共産主義社会への進展とはまったく関係ないのである。

 これまで検討してきたように、共産党のテロの責任はマルクスにあるのか?に対する答えは「当然、ある」ということになる。ある意味、これは当然の事のように思われるが、その具体的な内容になると非常に難しい問題であり、 「責任はある」と考えている人でも、その内容はほとんど知られていないのではないだろうか。以上は「共産党宣言」に沿っての分析、考察であったが、より本質的で重要なものは「資本論」にあると考えている。その詳細は「マルクス主義の解剖学」で論じられてある。


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この記事へのコメント

ひろびろ
2020年04月04日 21:01
 学生の頃岩波文庫の共産党宣言を買ってズボンの後ろポケットに突っ込んで歩いたりしてました。今思い返せば恥ずかしいけれどこれは格好付け。あの頃岩波文庫は値段が星の数で判るようになってましたね。星一つ30円の頃、二つ位でしたか、60円。ハイライトが70円だった。だから薄い本でポケットに入る。
 で、読んだかと云えば一応数ページめくったものの後が続かず中身はよく知らないまま。学生運動激しかった頃で社会全体の雰囲気が左傾してた頃ですね。ベトナム戦争の影響もあったんでしょう。
 
 50年経って共産党宣言とロシア革命、その後に続くテロルの流れ、その一部囓らせて貰いました。共産主義を掲げる国家はみな失敗している実態を見れば共産思想にシンパシーを感じるのは判らんでもないとして、それを今更求めるというアナクロは一体なんでしょう、という問いに前回のコメントで弁証法という便利な論法があると示唆貰いましたが、成る程、監視団体にされるわけです。

 今回のブログ読んで思ったのは、文中にもあるけれど理想と現実の乖離、みな平等に富の分配が行われる理想を保持するために階層分化が起き階級闘争に到る点、あれですね、人間の本質は変わらないって事。マトリックスみたいにつなげられて個々は幸福な夢を見ている。あれは共産主義社会の理想でしょう。だけど人間は面倒な事に一人一人自我があって人よりうまい米を食いたいという欲望も持っていて温和しくはつなげられない。そこにテロルがあるわけですね。

 ついていくの大変だけれど小皿に取り分けて出してもらえたら何とか自分なりに咀嚼出来そう。目通しただけでは頭に入らないからプリントしてマーカー片手に線引きながらやってますww。 
イオンのバベル
2020年04月05日 15:45
ひろびろさんへ

東大で学生と機動隊がぶつかっていた頃は、私はまだ小学生でした。 「なにやってんだこいつらは」くらいにしか思っていなかったです。学生運動の雰囲気は直接にはわからなかったですが、なんとなく感じていました。しかし、あさま山荘事件やテロのなどでイメージが非常に悪くなりましたね。それから共産主義関係の本を読むような事はなかったですが、それが急に変わったのは15年くらい前からです。 「共産党宣言」を読んだのもその頃です。もちろん、シンパシーを感じたからではなく批判するために読みました。といっても、読むときにはニュートラルに読まなければなりませんから、このような本は読む姿勢が問われますね。

プリントしてまで読んでいただけるとは恐縮してしまいます。いちばんわかりにくいところはどこでしょうかね。 「 無階級性を実現するためには「均等割り振り」 「完全な兼任」を実現する能力が絶対必要になる。 」というところは、非常にわかりにくいかなと思っているのですが・・・欲望の問題というのはもちろんそうなのですが、人間の能力の限界という事が主眼にあります。高度な生産力は高度な情報によって成り立っていて、その情報を司るものが階級の上位に来る-それが階級分化を起こす根本的な原因なので、それを無階級にするためには高度な情報を全員が平等に司らなければならない。しかし、それをすると莫大なコストがそこにかかってしまうので逆に生産力が崩壊してしまう-という理論なのです。まあ、これを主張しているのは私しかいないので聞いたこともないような話だと思うのですが。

その生産力の崩壊を防ぐために、資本主義でないのなら計画経済になるしかない、と言うことです。ところがそれをすると革命の目的に全く反することになるので、階級の下位になったものに強烈な不満が生じてくる-それに対してテロルが発動されるということになります。ヒトラー、ナチスのテロルの論理は比較的単純なものですから誰にもわかりやすいんですが、共産主義のテロルは非常に複雑なのでわかりにくいと思います。
ひろびろ
2020年04月06日 14:30
>欲望の問題というのはもちろんそうなのですが、人間の能力の限界という事が主眼にあります・・、

 こう説明して貰うと成る程そう云う事なんだと判ります。実に人間くさい、強烈な不満、そこから生まれる嫉み、嫉妬、猜疑心、その程度にも個人差があって理想通りには行かない。

>ヒトラー、ナチスのテロルの論理は比較的単純なものですから誰にもわかりやすいんですが、共産主義のテロルは非常に複雑なのでわかりにくい・・

 だとして、共産党指導者たちの犯した大量テロのおぞましさ、誰が断罪するんでしょう。
イオンのバベル
2020年04月06日 16:04
ひろびろさんへ

>だとして、共産党指導者たちの犯した大量テロのおぞましさ、誰が断罪するんでしょう。

本当に共産党指導者の犯罪というのは断罪されないどころか、隠蔽され 、擁護されさえしている。昔、スターリン批判はありましたが、今では問題にさえされていないようですね。レーニンに関してはブログに書いてきた通りです。ヒトラーとは雲泥の差がありますね。この断罪は若い世代に託すしかないでしょう。そのための準備を少しでもしておくことが、自分のできることかなと思っています。

同じ考えの人も相当いると思います。 YouTubeで岩田温という人が同じようなことを言っていました。まだ、若いですから期待しています。