ブログの今後の方針について

 ブログの今後の方針について少し述べてみたいと思います。戦後レジームを題材にして今まで記事を出してきましたが、自分の考えていた事は一通り言えたのではないかと思っています。普通、政治ブログは時事問題が中心になりますが、本来時事問題はあまり得意ではありませんでした。それよりも大きな社会的、歴史的、思想やイデオロギーのことを考えてきたのであり、それは別ブログの長文の論文でアップしています。このブログにおける時事問題はこの論文の内容とかなり関係しています。しかし、健康上の問題もあり、時事問題をこれ以上追うことはかなり負担が大きくなってきました。そこで時事問題は一応休止することにします。

 そこで別ブログの論文。あるいはこのブログの記事についてご意見、ご質問等がありましたら、ここのコメント欄に書いていただければと思います。そのコメントに対する応答はしていきたいと思いますし、このブログの記事にするということも考えたいと思います。そのような質問がなかった場合は、このブログの記事の更新はほとんどなくなるかもしれませんが、ご了承ください。

前回記事の訂正 ー厚生労働省の嘘情報


 前回記事について、色々調べていくうちに新しい問題があることが分かったので、ここで全面的に訂正いたします。

 この問題は 1ヶ月少し前に話題になったらしい。 それによると厚生労働省は感染者の国籍情報を集計していないのだという。これには驚いたのだが、資料に日本国籍者〇名、外国籍者〇名、その他は国籍確認中とあれば誰しも国籍を集計していると思わないだろうか。 ところが 、厚生労働省は感染症において国籍情報は優先事項ではなく、集計していないと言っている。これにも驚いた。仮に、ある特定の国籍に集中して感染症が起きても関係ないということなのだろう。

 それではなぜ、日本国籍者〇名、外国籍者〇名という表記があるのか、と言うとこのようなさまざまな情報は自治体が集計して厚生労働省にあげてくる。その時、感染者の国籍情報は必須項目ではないが、 一部の自治体は独自に国籍情報を記入してくるのでその分を集計したに過ぎない、ということのようだ。 つまり、その他のものは国籍確認中というのは完全な嘘なのである。 国籍を集計していないのだから、確認作業などは行なっていないのである。

 この情報に基づいての分析など全く意味をなさない。 前回の分析そのものは妥当だと思われるが、 元となるデータがこのようなものであるなら全て御破算である。 厚生労働省が公式に外部に発表する資料に、このようないい加減な数字と嘘が書いてあるとは思わなかった。

 これは戦後レジームの新たな一面が見れたという点は収穫だろう。官僚に国籍、国家という意識がいかに薄いかということである。重視すべきものでないのでいい加減に扱っても何とも感じないのであろう。

新型コロナウイルス国内感染者の6割弱は日本人ではないのか


  新型コロナウイルス(ここでは中共ウイルスと呼ぶことにする) は少し前まで自分の身近に迫ってきているようだったが、 私の県でもここ2週間くらい新規の感染者は0である。緊急事態宣言も解除された。まだまだ安心できないとはいえ多少落ち着いてきたようだ。

 ところで今まで全く問題にされていないことが気になってきた。 それはネットでの情報、特にYouTube動画でのコメント欄などで散見されるものであるが、日本の国内感染者の国籍である。 日本国籍の者は全体の半分くらいしかいない、と言うのでかなり驚いた。 そこで厚生労働省のホームページを見て確かめてみることにした。すると目を疑うような数字が出てきたのである。

 それは厚生労働省の報道発表資料に出てくる。国籍情報は常に載っているわけではなく、最近は1週間に1回程度のようだ。最新のものは5月8日になるので、それを見てみると国内の新型コロナウイルス感染者は15,547名、その内訳は日本国籍の者6,826名、外国籍の者226名(長崎県のクルーズ船149名を含む)それ以外は国籍確認中である。何気なく見ていると通り過ぎそうだが、気がつくとこれはとんでもない話である。なんと国籍確認中の者は8,495名である。 

 国籍確認中とはどのようなことなのか。国籍などというのは簡単にわかるものではないだろうか。友人に役所に勤めている者がいるので、この事を聞いてみたらやはり、在留外国人でも国籍は簡単に分かるはず、という答えだった。当然、日本国籍は国民皆保険の日本である、簡単に確認できるはずである。 外国籍は外国籍とちゃんと表記されてある。すると国籍を確認できない得体の知れない人間が6割近くいることになる。それとも彼らは宇宙人なのか・・・冗談はともかく、これは実に不可解なことである。

 まず国内感染者の中の日本国籍の者の比率に焦点を当ててみよう。日本国籍者はすなわち日本人である。外国籍だったものが帰化して日本人になるものを含めて日本人である。国内感染者の中の日本国籍の確認は簡単にできるはずだから、ここに出てくる数字は日本国籍者全てであり、それ以外にはいないはずである。まれに漏れはあるかもしれないが、大きく違う事はないだろう。

  3月6日、国内感染者349 名そのうち日本国籍者307名、それが3月27日になると国内感染者1,387名、そのうち日本国籍者969名、ここで初めてその他のものは国籍確認中がでてくる。 4月17日には国内感染者9,167名、そのうち日本国籍者4,357名、外国籍61名、その他は国籍確認中、 4月24日国内感染者12,388名、そのうち日本国籍者5,694名、外国籍67名、その他は国籍確認中といったところである。

 3月6日からの国内感染者のなかの日本国籍者の比率を1週間ごとに表記すると次のようになる。

0.88 → 0.78 → 0.72 → 0. 69 →0.54 → 0.51→ 0.475→ 0.460 → 0.445→ 0.439

 最初は9割程度だったものが時間の経過とともに漸次低下していき 5月8日にはなんと4割4分程度に低下している。 そうなるとよく報道される感染者数、感染率 、死亡者数などは国内感染者の数字であり、日本人の数字ではない。 日本人の数字はさらに下なのである。これを聞いて驚かないだろうか。 この記事のテーマにニュースを入れてみたが、それはこのようなニュースがあったということではなく、なぜこのことがニュースにならないのか、という意味が込められてある。

 それでは国籍確認中とはいかなるものなのか。 ここからは推測や憶測を交えて考えてみたい。 在留外国人でも国籍は簡単に確認できる、ということから考えてこれはどう見ても問題をあいまいにし、隠蔽しているとしか思えない。 その中に海外移送の疑い、というのもあるがこれは少数であり、海外から不当に入ってきた患者という意味なのだろうか。それは置くとして、おそらく大部分は在留外国人であろう。 もちろん不法滞在者もいると思うが、それほど大量に患者の中にいるとは思えない。

 現在、日本には在留外国人は 290万人程度いるらしい。内訳の上位6カ国は中国79万人、韓国45万人、ベトナム37万人、フィリピン28 万人、ブラジル21万人、インドネシア6万人である。さらに在留外国人が多い都道府県別では上位から東京都58万人、愛知県27 万人、大阪府25万人、神奈川県23 万人、埼玉県19万人などである。

 常識的に推測すればこのようなことが考えられる。中国発のあの中共ウイルスは当然、規制される以前に多くの中国人と共に入ってきているはずである。その中に在留中国人やその関係者が多くいたはずである。特に中国人は自分たちのコミュニティーを作りその中で密接に関わっている。その中で感染が広がらないはずがない。むしろそうならない方がおかしいだろう。だからこの感染者数はむしろ普通の数字なのである。もちろんこれは中国人に限った事ではなく、他の在留外国人にもいえることであるが、やはり中国人がいちばん多いと考えるのが自然である。しかし、これは欧米や他の国でも普通に起こっているはずである。ところが他の国では国全体がパンデミックになったためにその中に埋没し、目立たないものになっている。だから、日本においてそれが目立つようになったという事は、逆に日本人の感染者数、感染率が異常に低いということなのである。

 5月8日時点での感染者数を日本国籍の者、国籍確認中の者を分けてそれぞれの人口100万人あたりの感染者数を出してみる。国籍確認中を在留外国人とみなした場合の数字である。日本国籍者ー54人 国籍確認中の者ー2,929人

 マスメディアはシンガポールにおける感染のぶり返しを報道している。新規感染者の9割は外国人労働者であり、それは劣悪な住居環境などが原因だという。その社会の中には様々な立場の人間がいて、それぞれの環境や生活習慣あるいは言語の違いなどによって一様ではない。それに合わせた対策が必要になってくる。しかし、マスメディアはシンガポールにおける外国人問題を取り上げても、同じように日本においてこのような問題を取り上げたことがあるだろうか。それどころかそのような情報に一切触れていないように見える。このように日本では強力な情報統制が行われているのである。マスメディアにとっては少しでも日本を悪く見せたいのだから、このように国内感染者をまとめて捉えた方が都合がよい。またそれ以外にも多くの理由があるだろうが、際限がなくなるので今回はこの辺でやめることにしたい。

PCR検査と反日勢力のテロ


 中共ウィルスによる緊急事態宣言が延長になったが、致し方ないところだろう。かなり沈静化してきたとは言えまだまだ安心できる水準ではない。ところで、マスメディアを中心として極端にPCR検査をもっと拡充しろ、と言う意見が強く出ている。ちらっとテレビで見たのだが、とんでもない偏向報道を続けているようである。知らない人は騙されてしまうだろう。ここでもテロは爆弾などの物理的なものだけでなく、様々な方法によって可能なのだということを思い知らせてくれる実例である。

 ネットでの情報をいろいろ集めていると様々なことが見えてくる。素人に対しても色々と解りやすく解説してくれる動画などがあって、本当に良い時代になったものである。マスメディアの情報しかなかったらと思うと背筋が寒くなる。 PCR検査の問題点は様々に指摘されている。これは非常に難しく高度に訓練された専門家でなければできないものであり、様々な多くのコストがかかってくる。検査体制が容易に拡大できないのは当然のことなのである。加えてその感度はそれほど高くない、というのは大きな問題である。インフルエンザの検査でもそうなのだが、偽陰性がかなり出てくるのだという。実際にかかっているのに検査には引っかからない、ということなのだがこれには個人的にも経験がある。

 かなり前だが、家人がインフルエンザにかかり、しばらくして自分も少し熱がある様な気がした。それは一旦微熱になってから下がったのでどうなのかと思ったのだが、念のために内科にかかり診断をしてもらうことにした。検査が終わるとインフルエンザではないとのことで一安心し、家に帰ってきた。ところがその日の夜中に急に高熱になって、体中がだるくなってきた。これはどう見てもインフルエンザの症状である。といっても救急車を呼ぶほどではないので、夜間にやっている病院を探し診断してもらったら、やはりインフルエンザにかかっていた。タミフルを飲むとたちまち熱が下がってきたので、特効薬というのはこういうものかということを実感した。最初の診断はやはり偽陰性だったのである。しかし、検査をして陰性だったというのは心理的に大きな安心感につながっていたのは間違いない。

 PCR検査の拡充を主張しているある国会議員が「みんなPCR検査をして安心できるようにしましょう」と言っていたのを聞いたことがある。これには唖然とした-こんな見識のない人間が国会議員をやっているのである。癌の確定診断か何かのように思っているのだろうか。そもそも感染症なのだから、検査をした時にかかっていなかったとしても、次の日に感染しているかもしれない。そんな事はわからないのである。さらに大きな問題は感度が70%とかその程度のものであり、偽陰性が多く出てくるということである。インフルエンザの偽陰性の診断で感じた事は、このように検査をして白だとお墨付きをもらったものは、安心して他者との接触に不注意になり、感染を拡大させてしまうのではないか、ということである。この辺のことはよく説明すれば良いことかもしれないが、大して症状のないものがこのような検査をすることにどれほどの意味があるのか、ということになる。つまり、検査をして陰性だったとしても、自分が感染していないことが確定された訳ではない。他人に感染しないように注意しなければならないのは、それほど変わるわけではないのである。

 それ以外にもPCR検査に多くの人が集まってくればそこでクラスターが生じる危険性もあるという。クラスターを生じないように配慮することはまた多くのコストがかかるのである。 また偽陽性も多く出てくるのであり、それも大きな問題を持っているという。

 こちらのサイトを参照

 マスメディアなどが国民全体や流行地域の住民全体に対するような大幅なPCR検査拡充を主張する時の最大のポイントは、偽陰性、偽陽性の問題がそこに組み込まれているか、ということである。これらの問題をスルーしているようなら、もはやそれはテロといってもいいのである。

 診断によって病気が治るわけではない。その意味で早期のワクチンや薬の開発を期待したいものである。

緊急事態宣言が出てから

 緊急事態宣言が出てから3週間が過ぎ、かなりストレスが溜まってきているように感じられる。私はよくいわれる基礎疾患のある者に入るので、普通よりもさらに神経を使っている。

 その中で女優の岡江久美子さんが中共ウイルスで亡くなったのは相当なショックである。(ご冥福をお祈りいたします) 多くの人が言っていることであるが、以前の元気だったイメージが強いので、どうしてという感じではないだろうか。どうも、最近になって癌を患っていたようで闘病生活が長かったようである。基礎疾患のある人のうちに入るわけであるが、そのぶんかなり気をつけていたとのことである。外出もあまりしなかったらしいのだが、3月のお彼岸にお墓参りに行ったことが、罹患する原因になったのではないかとも言われている。たったそれだけで感染してしまうとは、、、本当のところはわからないだろうが、大変なことである。

 最近は気力が湧かなくて、次の記事の考えがなかなかまとまらない。不定期のこのブログにも、たまにアクセスしてくれる人がいるので更新できないのは申し訳ないが、次の記事はしばらく先になることをお断りしておきたい。 一刻も早く中共ウイルスがおさまって欲しいものである。ただ、一旦おさまったとしても、以前の社会には戻れないのは明らかである。スペイン風邪も第二波、第三波と後の方がひどくなっている。現在の医学や対策の進歩は同じことを繰り返さないとは思うが油断は禁物である。

見えざるテロ?-中共ウイルスの中で

 今年に入って共産党のテロをテーマにしていくつかの記事をアップしてきた。雑感ブログと銘打っていながら、論文調の長文になってしまっている。どうも私の性分でもあるようで、気楽な記事を書けないということもある。一応、このテーマは一区切りついた感じがするので、今回は気軽に思ったことを書いてみたいと思う。

 今、一番社会を騒がせているのはいうまでもなく新型コロナウイルスの蔓延である。ここではこのウイルスを中共ウイルスと呼ぶことにする。中国共産党ウイルスという意味である。このウイルスは中国共産党による生物兵器として開発されたものが、誤って外部に漏れたのではないか-という説がある。また、そうではなく自然発生的なものであったとしても、その初期段階においてこのウイルスの蔓延を中国共産党が隠蔽したことは確実であり、その結果として現在世界に広がって行った事は間違いない事実である。しかも、中国共産党は金にものをいわせてWHOに中国とは関係ない名称をつけさせている。そのような意味からもここではこれを中共ウイルスと呼びたいと思う。

 今思えば、共産党のテロをテーマにして記事を書こうと思ったのは今年の最初である。そのころから武漢肺炎として徐々にニュースで取り上げられ始めていた。私からすると共産党のテロをテーマとして記事をアップするごとに、この新型コロナウイルス-中共ウイルスが広まっていったという感じである。これらの記事はスターリンの大テロルを取り上げ、さらに遡りロシア革命におけるレーニンのテロルを取り上げている。ロシア革命が起こったのは1917年であるが、この時奇しくも世界的大パンデミックとなったスペイン風邪が流行り始めたのである。これは1918年初頭から流行が始まり、それが第一波となった後、さらによく1919年にも第二波、第三波となって世界で数千万人の死者を出したのである。日本での死者も39万人という大被害をもたらした。

 共産主義が拡張する時、不思議と天変地異や飢饉、疫病の蔓延が起こっているように感じられる。この人類初の共産主義革命であるロシア革命が起こったとき、人類史上最大のパンデミックが起こったというのは偶然の一致にしても、奥深いところでつながっているのではないかという予感がする。その後、ロシアではボリシェヴィキによる常軌を逸した食料調達や農民への弾圧と相まって、天候不順による大飢饉が起こったのである。それは市場経済へ一時的に譲歩するNEPにおいて小康状態を得たが、スターリンによる社会主義経済強化の大転換が起きた時、再び天候不順と農業政策のために大飢饉が勃発した。いずれもこの飢饉による餓死者は500万人と見積もられている。これは感覚がおかしくなりそうな数字であり、片方だけでも日本の大東亜戦争(太平洋戦争)の犠牲者数を上回っている。

 日本においては共産主義勢力拡張は表面に出ている共産党だけではなく、隠れ共産主義の拡張もそれにあたるだろう。日本は常に地震の多いところであるが、戦後から現在までを考えてみたとき、終戦直後の昭和南海地震や福井地震が地震の規模や人的被害が大きいが、見方によってはGHQによる共産主義拡張の時期とみることができる。それ以降最大の被害をもたらした地震は、いうまでもなく阪神淡路大震災と東日本大震災である。阪神淡路大震災の時は社会党委員長の村山富市が首相になっている。東日本大震災はいうまでもなく悪夢の民主党時代の菅直人である。どちらもトップクラスの売国反日首相といってもいいだろう。

 今回の中共ウイルスは当然、中国共産党の拡張ということになる。この疫病が偶然かどうかだけでなく、直接中国共産党が生み出したものではないか、という疑惑があるのが今までと違うところであるが、、、中国共産党は世界的パンデミックとなったこの事態をむしろ利用しようとしている。世界の反感を買うのは必至であり、中共包囲網が強化されていくだろう。

(追記)コメント欄がむしろ本文よりも重要なものになっているので、ぜひそちらもお読みください。

マルクスに共産党のテロの責任はあるのか?分かりやすい「共産党宣言」の問題点


 これまで述べてきた共産党のテロについて、その共産主義の創始者たるマルクスにどれだけの責任があるのか、ということを検討してみたい。このことに関してマルクスの著作の中で最も重要なものは「共産党宣言」と「資本論」であるだろう。もちろん、他にも多くの著作があるわけだが最も有名であり、ロシア革命を生み出した原動力はこの2冊に負うところが大きいと考えられる。しかし、 「資本論」は高度で難解であり、長い論考が必要になる。ここではよりわかりやすい「共産党宣言」を題材にして、この問題を考察してみたい。

 唯物史観からの逸脱

 マルクス主義の側からの「現存社会主義の責任はマルクス主義にはない」という解釈の最も有力なものが、この「唯物史観からの逸脱」ではないかと思われる。これは歴史的にみてもかなり以前から・・・例えばボリシェヴィキに対抗したメンシェヴィキもこのような主張につながる立場をとっている。その意味で、特にこの見解は現代マルクス主義特有のものではないのだが、その重要性から詳細に検討するに値するものだといえるだろう。また、最近でも『共産党宣言』関係の出版物の出版はかなり盛んである。これらの背後には次のような意図があるのではないかと思われる。一般的にも読みやすい『共産党宣言』には、資本主義社会の行き詰まりや窮乏化、二極化から社会主義革命の勃発、共産主義社会に至る大まかな見取り図が描かれてある。このこととロシア革命から現存社会主義が形成された状態とを比べてみれば、その本質的な違いはよく分かるということなのである。これは公然といわれることは極めて少ないが、マルクス主義を擁護しようとする者にとって、この論点は極めて重要であろう。

 「マルクスの『共産党宣言』などの文献を読むと、そこにはプロレタリアートとは別個の職業的革命家の集団である前衛党(共産党)が、社会主義革命を先導するというようなことは想定されていない。そもそも社会主義革命は資本主義社会が発展し、ブルジョワジーの資本蓄積が進み、勝ち残った少数のブルジョワジーとそれ以外の窮乏化が進む多数のプロレタリアートの二つの階級に分裂していき、それがある限界に達したときに自然発生的に勃発するものである。その中ではプロレタリアートの連合が形成されていき、ブルジョワジーと対抗し、闘争し、最終的には暴力的にブルジョワジーを打ち倒すのである。そして生産手段を手中にして社会的、共同体的所有とする。そして、市場を廃絶し資本制生産様式を廃止して、より合理的な生産力の高い平等な分配を可能にする共産主義の経済体制が築かれる。真の意味での無階級社会が達成される。ここでは社会の大多数を占めるプロレタリアートによって、革命は段階的に進むのであり、少数のブルジョワジーに対する暴力は規模の小さいもので済み、それも短期間で終わるだろう。このこととロシア革命における状況とはまったく異なる。まず、ロシアは資本主義の発展が非常に未熟なものであった。プロレタリアートの数は少数であり、国民の大多数は農民であった。マルクスが予測した資本主義社会が限界に達するような状況とはかけ離れていたのである。このような状況の中でレーニンは革命的前衛党というプロレタリアートの連合とはまったく異なる組織によって、戦争と自然発生的革命によって生じた権力の空白状態につけ込み、権力を奪取したのである。このような状態では少数者が多数者を支配しなければならず、その暴力は非常に大きなものになるだろう。また、その期間も非常に長くならざるをえない。赤色テロルはそのようなマルクスの理論が歪曲的に適用されてしまった不幸な例である。したがって、赤色テロルの責任をマルクスと関連づけることはまったくもって的外れである」。「マルクスの目指した社会主義、共産主義社会は偽りのブルジョワ民主主義ではなく、プロレタリアートが支配する平等で真の意味での民主主義である。暴力肯定はそこに至るまでのプロレタリアート独裁期におけるブルジョワジーとその勢力に対する過渡的なものにすぎない。社会主義、共産主義の完全な民主主義と、ボリシェヴィキの民主主義を抑圧し自らに権力を集中する独裁との間には何の共通点もない。これはまさに正反対のものである。このボリシェヴィキのテロルとマルクスのテロルとはまったく異なるものである」。

 それではマルクスが想定した資本主義の行き詰まり、二極化、窮乏化から社会主義革命が勃発する―そこでは革命的前衛党ではなく、プロレタリアートの連合による革命過程が進行するのである。そのこととロシア革命における状況の相違とはどれくらい本質的なものなのだろうか。これは極めて難しい問題である。マルクスの想定した通りに資本主義は進行していかなかったのだから、そもそもこの考察は無効である―このように考えてよいかもしれない。しかし、このことを考察することは極めて重要なことなのである。それではマルクスの想定した通りに二極化、窮乏化が進行したと仮定してみよう。プロレタリアートは多数者となり、ブルジョワジーは非常に少数となる。テクノクラートなどの中間層をどうしたらよいのかという問題が生ずるが、ここではひとまずおいておこう。

 『共産党宣言』ではブルジョワジー対プロレタリアートの大まかな闘争の過程が描かれている。「最初は、個々の労働者が別々に戦うが、次にはある工場の労働者たち全員が戦うようになる。その次はひとつの町の特定の産業分野の労働者全員が、彼らを直接に搾取する個々のブルジョワに対して戦う。労働者たちがブルジョワジーに対抗する連合体を作るようになる。こうした闘争の本当の成果は、その都度の具体的な成功にあるのではなく、彼ら労働者たちの組織が次第に拡大していくことにある。彼らのこの団結は、まさに大工業が生み出したコミュニケーション手段の進歩の追い風を受ける。こうした手段によって、さまざまな地域の労働者たちが直接に連絡しあうことができるのである。さまざまな地域の闘争はどこでも同じ性格を持っているのであり、連絡手段さえあれば、こうした闘争を、ナショナルの階級闘争へと纏め上げることができるのだ。だが、どんな階級闘争も政治闘争なのである。こうしてプロレタリアートは強固に団結し、まとまった強大な存在となる。そしてある地点に達すると公然たる革命として爆発し、ブルジョワジーの暴力的打倒を通じてプロレタリアートが自らの支配を打ち立てるに至る」 ―以下、共産主義社会に進展していくというわけである。これらの論述を読んでいくと、さももっともらしい印象を持つであろう。以上の中に潜む問題とは何だろうか?もっとも重要な核心は次のようなことである。最初の段階ではプロレタリアートのブルジョワジーに対する戦いは、一種の場当たり的な反抗であり、設備の焼き打ちなど反乱的であるが、次第に組織化されていき地域的な広がりもどんどん拡大していく。それは革命という合目的的な機能を持つ大きな組織になっていくのである。このような段階になれば、その機能を合理的に効率よく達成するための階層性が生じてくるのである。これは何も革命に限ったことではない。どのような目的であったとしても、それがある程度以上の高度なものであるならば、必ず組織の中に階層、階級が生じてくるのである。

 例えば、このプロレタリアートの連合が闘争ばかりしていたのでは、ということで息抜きに運動会を開催しようということになった。そのためには実行委員、その責任者、副責任者や企画、運営、書記、会計、連絡係、備品調達管理、などなどさまざまな階層性、役割を分業によって担わなければ、運動会はまったく実現されないだろう。つまり、革命というものを遂行しようという場合、以前にあった機能と同等、ないしそれ以上のものを達成しようとすれば、その革命主体は非常に高度な組織性を持たなければならず、それは必ず階級構造を持つことになるのである。このような革命の目的は、運動会よりもはるかに高度なものである。つまり、ポイントは闘争の初期段階における単純な反乱と、プロレタリアートが大規模に組織された状態とではまったく異なる、ということである。これは天と地ほどの差がある。しかし、マルクスはこれを連続した記述として示して、これがまったく異なる状態であるということを気づかれないようにしているのではないか・・・初期段階においてはプロレタリアート内部に当然、階級分化は生じていないが、大規模に組織された段階ではプロレタリアート内部に階級分化が生じてくるのである。

 革命は運動会よりも比較にならないほど、困難な大事業である。そこでは強力な組織統合が必要であり、階級構造も強いものとならざるをえない。これはまさにレーニンの取った手法なのであり、この点においてレーニンの現実主義の方が正しいのである。しかし、この仮定の中ではプロレタリアートは大多数であり、ブルジョワジーの打倒は容易であった。これはロシア革命の状況とはまったく異なるように見えるだろう。ところが問題はその次から生じてくる。プロレタリアート内部に生じた強い階級構造は、その下位の者からすれば本来の革命の目的からまったく逸脱している。そのことに対する強い不満、抵抗が生じでくるのは必至なのである。ここで次のような反論があるかもしれない。「これはロシア革命におけるような革命的前衛党が主導していたものではなく、多数のプロレタリアートの連合によって成し遂げられた革命である。革命時においてそのプロレタリアートの連合に強い階級構造が形成されていたとしても、その過渡期が過ぎれば元の無階級制に戻るはずであり、そこでは平等で緩やかなプロレタリアートの連合になるだろう。このような不満が生じてくることはないはずである」しかし、これこそが超弩級の誤謬なのである。過渡期が過ぎても階級構造が消滅することは絶対にありえない。高度な合目的性を持った組織はどのようなものであれ―資本主義の上部構造を覆そうとするプロレタリアートの連合体でもその後の経済体制においても、無階級性を実現するためには「均等割り振り」 「完全な兼任」を実現する能力が絶対必要になる。革命後の経済機能を保とうとすれば、それが資本制生産様式であっても、計画経済であっても階級構造は絶対に必要なのである。

 しかし、資本制生産様式を採用するとなれば、かつてのプロレタリアートの一部が資本家に転化するということになる。これでは何をやっていたのかまったく分らないことになるだろう。社会主義、共産主義を目指すということになれば、必然的に計画経済にならざるをえないのである。それは元プロレタリアートが官僚に転化して頭脳労働領域を担い、階級構造が形成されていくことを意味している。つまり、社会主義革命を主導するのが革命的前衛党であっても、プロレタリアートの連合体の指導部であっても本質的にはまったく同じなのである。それはまったく同じ結果へと導かれる。「それでも、そのプロレタリアートの指導部はかつての同僚だったのだから、うまくやっていけるのではないか」このように考えたとしたら、それはまったく甘い。むしろ事態は逆だともいえるだろう。このプロレタリアートは搾取される不平等な社会から、平等な分配、生産の所有ができる理想社会を目指したのである。そして苦労して、危険を冒して革命を遂行したのである。その結果として以前とまったく同じ立場にとどまってしまい、同僚だった者が階級の上に座って自分を顎で使ったとしたら絶対に我慢出来ないだろう。つまり、かつて同じ階級だった者の中に階級分化が生じ階級闘争が生じてくるのである。そしてこの階級闘争は以前よりもさらに激烈なものになっていく可能性の方が高い。

 プロレタリアートの連合体の指導部は強い権力を持ち、それを行使するための秘密警察、政治警察を持つことは必然となる。また、そうしなければ指導部は存在することが出来ないだろう。革命時においてはブルジョワジーとその勢力を弾圧、撲滅することにこの警察権力は欠かすことの出来ないものであり、大きな役割を演じる。単純な労働者の反乱だけでは、決定的な効果を発揮出来ないことは明らかである。マルクスは革命過程において、このような単純な労働者の反乱のレベルと高度な警察権力の行使の区別をまったくしていない。革命時においてブルジョワジーを弾圧した警察権力は、その後でプロレタリアート内部に生じた階級闘争に振り向けられることになる。今度は、かつての同僚を弾圧し、激烈な反抗に対してテロルで応ずるよりほかはなくなるだろう。・・・結局、同じことになるのである。プロレタリアートの連合体の指導部はボリシェヴィキとまったく同じジレンマに陥る。そしてこの内部矛盾を押え込むための強力な指導者が要請されるのである。つまり、このプロレタリアートの連合体の中からスターリンが現れてくることになる。これはそのような資質を持った人物がその中に存在するかという難しい問題があるが、重要なのはこのような指導者が要請される状況が造り出されてある、ということなのである。

 ロシア革命、現存社会主義は唯物史観からの逸脱である。したがってマルクス主義の実現の可能性はまだこれから未来に向かって開かれている―このことに対する結論も明らかである。マルクスが想定した通りの資本主義の進展、崩壊の現実性を信じる人はほとんどいないであろうし、現代的な意味での別の崩壊の可能性を考えたとしても、そのことと共産主義社会への進展とはまったく関係ないのである。

 これまで検討してきたように、共産党のテロの責任はマルクスにあるのか?に対する答えは「当然、ある」ということになる。ある意味、これは当然の事のように思われるが、その具体的な内容になると非常に難しい問題であり、 「責任はある」と考えている人でも、その内容はほとんど知られていないのではないだろうか。以上は「共産党宣言」に沿っての分析、考察であったが、より本質的で重要なものは「資本論」にあると考えている。その詳細は「マルクス主義の解剖学」で論じられてある。


共産党のテロの始まり-労農同盟の破綻と世界革命

(前回の続き)

 ボリシェヴィキの農業政策

1917年10月、ロシア革命勃発以前、以後のロシアの農業の状態、食糧事情については、やはりソ連崩壊以後の多くの資料の研究によって、その詳細が明らかになってきている。

 第1次世界大戦からロシアの農業事情は悲惨な状況へと転がっていた。軍隊へ多くの若者が取られ、戦死したり、傷病兵となって故郷へ帰ってきた。農村から都市への食糧の輸送は、鉄道、列車の専門の整備士の不足による整備不良や燃料不足、盗賊行為、不正略取などにより壊滅的な状況となっていった。都市は深刻な飢餓状態となっていた。1918年3月、ブレスト・リトフスク条約により、ロシアは戦線から離脱し一息つくことが出来たのである。ボリシェヴィキはこの深刻な飢餓状態を改善すべく努力を始めた。これはボリシェヴィキの主張である「平和とパン」を実行に移したものとして、公平にみて評価されるべきものであるだろう。ところがこれが大問題となっていったのである―ここでもボリシェヴィキの目標は共産主義イデオロギーの現実化である。すなわち私的商業は廃止され、市場は廃止されなければならない。しかし、この時深刻な飢餓を克服するためには私的商業を認め、市場に頼るしかない状況だったのである。もちろん、現在から見れば飢餓状態かどうか、に関わりなく私的商業、市場は必須のものである。しかし、この時はまさに緊急の要請があったのである。この時ボリシェヴィキがなすべきことは、私的商業、市場を認め、それを上手く管理しコントロールすることであろう。しかし、資本主義を徹底して破壊することを至上目的とするボリシェヴィキにとって、これは到底ありえないことなのである。

 私的商業、市場は非合法な行為となったが、それでも差し迫った必要から担ぎ屋行為が蔓延した。ボリシェヴィキは渋々ながら、その必要性も認めていたから、あるときは部分的にこれを許容したが、基本的には禁止の方向に向かい違反したものは厳しい罰則が科せられた。そして、農村から都市への食糧供給には、工業生産物と食糧の交換という共産主義的生産物交換が徹底して実行されることになった。ところが、戦争によって疲弊した都市はそれだけの工業生産物を生産出来なかったのである。そのことにより、交換するだけの工業製品がないにもかかわらず、農村から食糧が徴収されることになった。当然のように農民の激しい抵抗が沸き起こった。そこでボリシェヴィキは軍隊による厳しい強制手段に訴え、抵抗したものは銃殺、強制収容所送りにしたのである。こうして、商業行為、農業政策への反抗といった違反者を処罰するための強制収容所が必要となり、瞬く間にロシア全土に大量に出現していったのである。

 ボリシェヴィキは何としても都市の飢餓を克服しなければならないため、農民に対する食糧調達を強化していった。交換できる工業製品が足りないにもかかわらず、常軌を逸した量の食糧割当が課せられたのである。そのため農村部も飢餓状態に陥っていった。農民は収穫量が増えても、私的に売りさばくことが出来ず、増えた分だけ強制的に徴収されてしまうため労働意欲が減衰していった。農村に悲惨な飢餓が迫っていったのである。それでも、ボリシェヴィキは共産主義イデオロギーを押しとうし、私的商業、市場を圧殺することを決して止めなかったのである。天候不順による飢饉も重なって、1921年、22年にロシア全土に途方もない飢餓が訪れ推定500万人が餓死したと言われている。また、農民反乱が各地で起り、赤軍による残虐な弾圧が繰り返されたのである。弾圧には毒ガスも使用されたという。この悲惨な飢餓の結果、レーニンとボリシェヴィキは渋々ながら、共産主義経済体制をすぐに築くことは不可能であることを認め、私的商業、市場をある程度は許容する新経済政策( NEP)を導入することになった。

 農業政策の考察

 どうしてボリシェヴィキはここまで強引に食糧調達を押しとうしてきたのだろうか。それはマルクスの理論、唯物史観によるものであることは今更説明の必要もないだろう。つまり、資本主義から共産主義の経済体制になれば、工業生産力は大きく増大すると信じられていたからである。しかし、戦争の結果、都市部は深刻な飢餓状態になっていた。まずこれを改善しなければ、共産主義的経済体制などとても不可能なことである。これを救いさえすれば、資本主義的生産様式をはるかに超える効率の良い共産主義的経済体制に発展するのだから、その結果農民に行き渡る工業製品は大量に生産することが可能になる。そのための「賭け」として農民は先に都市に食糧を供給しなければならない―たとえ農民の一部が餓死しようとも―である。そのときは大変でも、たちまち将来にはより良い状態が訪れるのだから、「それまで辛抱しろ」というわけなのである

 「社会主義、共産主義は資本主義よりも生産力が上である」このことが、どれほど巨大な悲劇を導いたかということを述べるのに、一体どれほどの紙幅が必要になるだろうか。このような幻想を生みだすためのマルクスのイデオロギー操作をこれまで詳細に検討してきた。社会主義、共産主義の思想を生み出したのはマルクス一個人に帰せられるわけではない。それまでの長い思想の歴史が存在する―しかし、経済学と密接にリンクすることによって、科学としての装いを身にまとい、これほどまでに強力なイデオロギーを創出したのは、ほとんどマルクス一個人によるものである・・・まさにこれは驚くべきことである。

 ここでも、労働者自主管理がいかにしたら成立するかという問題と同一の問題が存在する。都市と農村、プロレタリアートと農民、食糧の需要と供給、さまざまな交通手段を機能させるための物質的な基盤、その運営、それらすべてが超高効率の情報伝達、情報処理、意思決定の能力上の問題として存在しているのである。私的商業、市場を介さずに食糧供給を実現するためには、さまざまな情報が途方もないレベルで伝達されなければならない。ここでも完全な兼任を達成できる能力が要請されるのである。すべてのプロレタリアートと農民がひとつの頭脳となるような情報伝達、情報処理、意思決定の能力が要請されるのである。

 本論(マルクス主義の解剖学)のいままで検討してきた結論は、ここでも完全に適用されるのである。マルクスが思い描いた共産主義社会の理想的な形態は、この完全な兼任を達成できる能力の能力世界なのである。そして、この能力を獲得するいかなる手段もわれわれには存在しない。資本主義のどのような要素を抑圧、放棄、破壊しようとも、それはまったくこのような能力の獲得には繋がらないのである。私的商業、市場を禁止、破壊したとしても、都市と農村の工業製品と農産物の生産物交換をしたとしても、それはこのような能力の獲得とは一切無関係である。ここでも、因果関係の逆転が行われている。すなわち工業製品と農産物の生産物交換が、共産主義的な形態で行われること―これはプロレタリアートと農民が相互にお互いの必要なものを交換し合う、そして極端に富を手にする商人、資本家が存在しない平等な生産物交換の経済である―しかし、これこそが情報をコストゼロとみなす途方もない幻想なのである。逆にいえばこの状態を実現させるためには、情報のコストがゼロになるような能力が必須となるのである。それが完全な兼任を達成できる能力である。もし、このような能力を獲得することができれば、このような共産主義的生産物交換が可能になるだろう。それ以外の条件も満たされていなければならないが―である。能力の獲得→共産主義的生産物交換という因果関係を、共産主義的生産物交換→能力の獲得→共産主義社会というように完全に逆転させて、真ん中の「能力の獲得」を徹底した捨象によって思考することの出来ないよう麻酔剤を射っておいたのが、マルクスのイデオロギー体系なのである。

 ソヴィエト社会主義共和国連邦―今は亡きその国の国旗は真っ赤な地にハンマーと鋤の重なった図のデザインであった。これが労農同盟を意味するものであることは明らかである。私が子供の頃から慣れ親しんだその国旗に、本来の意味である労働者と農民の同盟、搾取されることのない労働者の協調した平等な社会、というイメージを感じたことは1度もなかった。この国旗は得体の知れない自由のない警察国家、軍事力にものをいわせ謀略渦巻く世界、というイメージのものでしかなかったのである。

 ボリシェヴィキの目指した労農同盟は現実にはごく一部に限定的に成立したにすぎず、そのほとんどは実態の伴わない虚構であった。農村に対する食糧の強制的な徴発により、都市プロレタリアートと農民の関係はむしろ敵対的になっていたのである。ボリシェヴィキにしてみれば、食糧を都市に供給しさえすれば工業生産力は増大するのだから、その食糧の供給を渋る農民は社会主義、共産主義に反抗する農民であり裏切り者なのである。しかし、都市ではすでに労働者自主管理は完全に失敗しており、そもそも労農同盟の基盤となる理論は破綻していたのである。官僚による工業管理を、内戦によって優秀なプロレタリアートの多くが戦死したことを理由に挙げる場合がある。この責任は内戦の相手である白衛軍と干渉戦争をしかけた側にある、というマルクス主義者の反論はまったく無効である。すでに内戦がはじまる以前に、労働者自主管理は破綻していたのだから―その破綻の結果、官僚による工業管理が強化されていったのである。もし、内戦がなかったとしても、官僚による工業管理はまったく同様に強化されていくだろう。そしてこのことは国際革命、世界革命論においてもまったく同様に当てはまるのである。

 世界革命の考察

 ロシア革命論における世界革命の位置は非常に重要なものである。マルクス主義者、共産主義者はロシア革命がなぜスターリン主義の途方もない歪曲を被ったのか、ということの根源的な理由を世界革命が勃発しなかったこと―に求めることが非常に多いのである。これは唯物史観の根本となる歴史認識、歴史法則である資本主義が発展し、資本家とプロレタリアートの二極分化によって階級闘争は激化し、それが頂点に至ったとき革命が勃発する―そこに至らなければ社会主義革命は決して起こらないのである。この公式にロシア革命は部分的にしか当てはまらなかった。ロシアは19世紀末から工業化が進み、資本主義が発展してきたとはいえまだ圧倒的な農業国であり、プロレタリアートの数は少なかったのである。しかし、マルクスは『共産党宣言』ロシア語訳において資本主義後進国ロシアであっても、そこに革命が起きればそれが先進資本主義諸国に波及していく―いわば革命の導火線の役目を果たすことができる、と述べているのである。レーニンはそのことを革命遂行の中心に据えていたのである。

 レーニンが執務していた5年のあいだ、ソヴィエト・ロシアの外交政策はロシア共産党の政策の一附属物であった。それ自体は、まず何よりも、世界革命のために貢献すべきものと意図されていた。ボリシェヴィキがロシアで権力を掌握したのは、ロシアを変えるためではなく、跳躍板としてそれを利用し、そこから世界を変えるためであったということを、いくら強く、あるいは、頻繁に主張してもし過ぎることはない。レーニンは、1918年の5月に「社会主義の利害、つまり世界革命の利害が、民族的な利害、国家の利害に優越すると我々は断言する」と述べている。共産主義体制の創設者たちには、彼らの革命が、もし、直ちに国外に波及しなければ、それは短命に終わるであろうと思われた。この信念は、二つの前提に基づいていた。一つは、彼らよりはるかに強力な「資本家」の陣営が一つになり、経済制裁と軍事攻撃を結合して革命の前哨地を打倒しようとするであろうというものであった。もう一つは、たとえそうならなくとも、あるいは、それが現実となり、ロシアの共産主義者がその攻撃をはね返すことができたとしても、彼らは、まだ、敵に囲まれ、敵意をもつ遅れた農民の住む孤立した共産主義国家の運営を試みるという打ち勝ちがたい困難に直面するというものであった。

 理論の方はそんなところにして、実際には、ソヴィエト・ロシアは、世界で最初の、そして長い間、唯一の共産主義国であったから、ボリシェヴィキは、ロシアの利害を世界共産主義のそれと同一視するようになった。そして、世界革命への彼らの期待が後退していくにつれ―これは1921年までに生じていたが―、ソヴィエト・ロシアの利害を最優先する以外に、彼らには選択肢が残されていなかった。結局のところ、共産主義はロシアにおいて一つの現実であるが、それ以外のところではどこにおいても、単なる希望にすぎなかったからである。

 それ自身のナショナルな利害をもち、同時に、ナショナルなものを超えた革命、つまり、国境なき運動の司令部でもある一国の政府として、ボリシェヴィキ体制は、さらに、その二重の外交政策を展開することになった。外務人民委員部は、ソヴィエト国家の名で行動しながら、以前と同じように、公式には、ソヴィエト国家と関係をもつ用意のある列国とは正常な関係を維持した。世界革命を推進させるという課題は、1919年3月に創設された第三の、つまり、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の新しい組織に委ねられた。形式的には、コミンテルンは、ソヴィエト政府からも、ロシア共産党からも独立していたが、現実には、後者の中央委員会の一部局であった。二つの本体に分離することで、モスクワは、「平和共存」と転覆活動を同時に行う政策を指揮することが可能となった。

 コミンテルンには、国外で革命を推進させると同時に、ソヴィエト・ロシアに対し十字軍を起こそうとする「資本主義」諸国の努力を失効させるという、攻撃と防衛の二つの任務があった。コミンテルンは、攻撃よりも防衛において大きな成功をおさめた。国外の社会主義者と自由主義者には、政治スローガンで、国外の企業家たちには有望で儲かるビジネスがあるとの触れ込みで訴えかけながら、コミンテルンの活動家は「ロシアから手を引け」というスローガンのもとで、どうにか反共主義のイニシアチヴを阻むことができた。1920年代の初めまでに、ヨーロッパの事実上、全ての国が、初めは無法者として扱っていた政府と、外交および通商関係を樹立するにいたった。しかし、コミンテルンが実現しようとした革命は、全て、ヨーロッパであれ、中東、極東であれ、大敗に終わった、革命を国外に、とりわけ工業化された諸国にもち込むことにレーニンが失敗したことによって、ソヴィエト・ロシアは、その生来の専制的で官僚的な伝統に立ち戻ることが殆ど確実となった。そのことにより、スターリンが支配権をうることが殆ど不可避となった。彼は、世界革命が起こる見通しは、少なくとも、再び世界戦争が勃発するまでは無に近いと早くから結論を下し、彼の権力基盤を国内に築くことに専念していた(リチャード・パイプス 著『ロシア革命史』291、292頁)。

 レーニンはロシア革命に次ぐ社会主義革命がドイツに起こることを期待していた。ロシアよりもはるかに工業の進んだ先進資本主義国であるドイツに革命が起きれば、ドイツのプロレタリアートがロシアに救援に駆けつけてくれる。ロシアの破壊された工業力は、ドイツの力で急速に復興するだろう―さらにそれ以外の工業国に社会主義革命が波及していけば、内戦の危機はまったく問題でなくなるだろう。それが20世紀に人類がたどるべき希望に満ちた正常な歴史となったはずである―このような見解が現代においてさえ(当然、過去には非常に広く)ときどき見られるのである。当然、この見解は批判や反論にさらされてきたけれども、そこに決定的な反証を加えることは極めて困難なことであった。

 本論(マルクス主義の解剖学)は今まで広く行き渡っていたこの見解に決定的な結論を導き出すことを目的とする。もし、ドイツで社会主義革命が本当に起こったとしたら、どのような事態になっていただろうか。工業をはじめとする社会全体で、本当に無階級化を遂行すれば、それは「能力の問題」に抵触することになる。生産力、社会の機能はたちどころに機能不全に陥ってしまうのである。革命が成功した瞬間に、生産力は破壊される・・・これが本論の結論である。それは戦争によって、すでに機能不全に陥っていたロシアの工業力の場合より、はるかに明瞭にその生産力破壊は現れるだろう。それによってもたらされる混乱やパニックは想像を絶するものがある。つまり、この革命ドイツはロシアを救援するどころではなく、逆にそのロシアに救援にきてもらいたいくらいの大惨事となるのである。しかし、現実にはそうはならないだろう。この機能不全状態を改善すべく、直ちに対応が取られるだろうから。それはプロレタリアート内部に階層性が生まれ、さらに経済を機能させるために、それ以前のブルジョワ専門家と呼ばれる人たちが活用される。そして、私的商業、市場を禁止するならば、官僚による計画経済が採用されることになる。それを遂行するための強力な秘密警察が発達していくだろう。つまり、たどる道はロシアとまったく同じなのである。その共産主義ドイツは共産主義ロシアとどのような関係になるかはまた別の問題であるが・・・

 パイプスは反共主義の側にあるアメリカの歴史家である。当然、マルクス主義、共産主義に対して極めて強い批判的な態度を取っている。そのパイプスからして、この世界革命の展望に対する見解は唯物史観に影響され、巻き込まれているのである。以下のパイプスの引用文「コミンテルンが実現しようとした革命は、全て、ヨーロッパであれ、中東、極東であれ、大敗に終わった、革命を国外に、とりわけ工業化された諸国にもち込むことにレーニンが失敗したことによって、ソヴィエト・ロシアは、その生来の専制的で官僚的な伝統に立ち戻ることが殆ど確実となった。そのことにより、スターリンが支配権をうることが殆ど不可避となった」は、まったく常識的な見解のように見える。しかし、これが大問題であるのだ。工業化された先進国に社会主義革命を持ち込むことに失敗した―その結果として革命ロシアは、その生来の専制的で官僚的な伝統に立ち戻ることになった―この因果関係が完全な誤りであることは、もはや明らかである。工業化された先進国に社会主義革命が勃発しても、ロシアはまったく同じように専制的な官僚体制を構築していくしかないのである。そしてその官僚体制は、ロシアの伝統に単に立ち戻ることではない。これは専制君主の官僚体制ではなく、共産主義イデオロギーのもとで、そのイデオロギーの原理的な矛盾から不可避的に生じてきた、根本的に捻れている官僚体制なのである。この矛盾、捻れというのは、それ以前のロシアの官僚体制にはない性格なのである。そして、スターリンが支配権をうることになったのは、スターリンがロシア伝統の専制君主を目指し、伝統的な官僚体制を味方にしたからではなく、その矛盾と捻れの性格を巧妙に利用する才分と意思があったからだといえるだろう。

 先進国革命論はいまだに根強く存在する。現代における資本主義の欠点を是正しようとするオルタナティブを考える時、マルクスの資本主義批判と同時に社会主義、共産主義はいまだに魅力的なものを持っているように見えるのである。これは歴史上、先進資本主義国に社会主義革命が起こったことが一度もないから―という理由が大きいだろう。これが現実に起こっていたなら、この認識はまた大きく違っていたと推測することができる。しかし、これはまったく非現実的なことであると正しく判断できる人なら考えるだろう。そして、この革命の結果がどうなるか「社会主義窮乏化理論」は理論的に導き出すことができる。現実に社会のごく一部に無階級化実験をして証明することもできるのである。このような局所性を否定するのがマルクス主義、唯物史観である。

 チャーチルは1920年代に「ボリシェヴィキは狂信者であり、彼らを説得してその主義運動を捨てさせられるものではない。彼らの見解では、彼らのシステムは、十分に大きな規模において試みられていないために、成功を収めていないのであり、成功を確かなものにするためには、それを世界的な規模にしなければならない」といったという。たしかに、ロシアに限定されたこのシステムは、世界的な規模になった場合に比べて制約を受け、さらに妨害されるということは事実だろう。それでは、その制約や妨害がまったくなかったとしたら十全に機能するのだろうか。外部条件の最適化による無階級化実験をすれば、それは何の根拠もない虚妄だということが証明されるだろう。この世界革命の論理は、今この現在の失敗を取り繕い、問題解決を絶えず先送りしていくこのイデオロギーの巧妙な戦術となるのである。

 結論はこのようなものである。「階級としてのプロレタリアート独裁」を通過しなければ共産主義社会に至ることは決してない。そのためにはプロレタリアートは相互依存している頭脳労働を兼任しなければならない。その規模が大きくなればなるほど兼任しなければならなくなる頭脳労働領域は拡大していく。つまり、ある規模においてそれが不可能であるということは、それより大きな規模においてはさらに不可能であるということだ。世界革命の論理「社会主義、共産主義は革命がロシアにとどまったから失敗したのであり、世界革命に発展すれば成功しただろう」というのは、独力で富士山に登れない幼児に向かって、「それならエベレストなら登れるだろう」と言っているようなものである。

 世界革命とはすなわち共産党による弾圧、テロの輸出である。また、戦争という混乱に乗じて権力を握ったボリシェヴィキにとって、共産党が権力を握るには戦争という混乱状態が必須ということになる。すなわち世界全体を戦争に巻き込むことが共産主義拡張のチャンスになるのである。 1922年に日本共産党はこのコミンテルン日本支部として発足している。日本共産党は破防法による公安監視対象になっているというのは、このような経緯からも当然のことなのである。レーニンはすでに資本主義国を戦争によって同士討ちさせ、ソ連を守るということを言っている。その時からアメリカと日本を戦争させるという狙いがあったのである。スターリンはそれを受け継いでいった。すでに巨大な諜報活動、工作活動が他国に対して始まっていたのである。


共産党のテロの始まり-「パパ、ぼくにもやらせて」

(前回の続き)

  メリグーノフの著作から

 ここでは赤色テロルのさらに詳しい具体的な側面をメリグーノフの著作『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)』から引用して、検討してみたい。というのは、一般的に今までスターリン時代のテロルはかなり頻繁に取上げられてきた。これはいうまでもなく、1956年にフルシチョフによる「スターリン批判」から、スターリンの弾圧、テロルが当のソ連共産党自身によって公表されたからである。これによって、「レーニンは正しいが、スターリンは誤っていた」というひとつの広い見方が流布されていった。例えばソ連の反体制知識人であるロイ・メドベージェフの著書『共産主義とは何か』などでスターリンの圧政が弾劾されることになり、スターリン時代のテロルはソ連崩壊以前からかなり知られるようになったのである。しかし、社会主義革命の英雄であるレーニンに関しては、そのような追及はあまりなされなかったようである。レーニン時代のテロルを書いたり、話したりする人がいても、黙殺されたり、無視されたりすることが多かったようである。メリグーノフの著書もその中のひとつとみなされるだろう。メリグーノフは実際に人民社会主義の党員であり、10月革命後、反ボリシェヴィキ闘争に関わり、チェーカーによって再三逮捕された。20年に死刑判決を受けたが仲間の社会主義者の尽力によって釈放された。そこに書かれてあることは、まさにすさまじいテロルであり、それはまたスターリン時代とは違い、内戦中あるいは内戦の後であったために公然としたテロルになっていた。この本を読むとレーニン時代とスターリン時代のテロルは完全に繋がっているということがわかる。

 日本のマスメディアにおいては以前にも述べたように、共産党のテロルはほとんど取り上げられる事はない。スターリン時代のテロルについてはドキュメンタリー番組などで、ごくわずかに触れられたのを見たことがあるが、レーニン時代のテロルについてはほぼ絶無といってもよいのではないだろうか。ナチスのホロコーストに比べてどれだけの隔たりがあるかはわからないだろう。この問題はこれ以降、深く追求していくことになるが、実際にどのように行われたかを具体的に示す事は必要だと思われるので、ここでもかなり長く引用することにしたい。長すぎると感じたり、苦痛に感じたりする方は色文字の引用部分を飛ばして読んでいただきたいと思う。ここに示されたこともレーニン時代のテロルの一部に過ぎない。

 一八年になると死刑はツァーリ体制でも達しなかったような範囲にまで復活した。そのようなものが「革命権力」の懲罰機関システム化の最初の成果であった。基本的人権とモラルの軽視に沿って中央は前進し、その実例を示した。二月二一日に、ドイツ軍の侵攻に関連し、特別声明によって「社会主義の祖国」が危機に瀕していると宣告され、同時にもっとも広汎な規模で死刑が実際に導入された。「敵側エージェント、投機人、押し込み強盗、無頼の徒、反革命アジテーター、ドイツのスパイを犯罪現場で銃殺する」

 一八年五月にモスクワのいわゆる最高革命裁判所で裁かれたシチャスヌィ艦長事件ほど、言語道断なものは稀である。シチャスヌィ艦長はバルト海でロシア艦隊の遺棄船をドイツ分艦隊へ引き渡すのを救い、クロンシタットに曳航した。それにもかかわらず、彼は反逆罪で告発された。告発は次のように申し立てられた。「英雄的偉業をなしたシチャスヌィは、それによって名声を作り上げ、以後反ソヴェト権力にそれを利用しようと企てた」という。シチャスヌィを非難して、主要証人としてただ一人トロツキーが立った。五月二二日に「バルト艦隊救助の罪で」シチャスヌィは銃殺された。この判決により、司法による死刑も確立された。この「冷血な殺人という血まみれの茶番」は、社会民主党=メンシェヴィキのリーダーであるマールトフから、労働者階級に訴えるはっきりとした抗議を引き出した。だが当時はそれに大きな反響はなかった。というのは、マールトフと彼の同志の政治的立場は、今後発生する反革命に抵抗するためボリシェヴィキと共同行動を訴えるのが、その時の最終目的であったので。(メリグーノフ著『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)』 56、 57頁)

 このような実例は、まるでスターリン時代そのものである。これがすでに1918年5月という時点で起こっているのである。しかも、その証人に立ったのがトロツキーだということは、後にスターリンによってソ連を追われ、暗殺されることになった運命と重なってこないだろうか。スターリン時代に感じる特質は、すでに10月革命直後から生じていたのであり、それは日を追うごとに強くなっていったのである。

 ヂェニーキン以後

 ・・・これらの惨劇も少なくとも犠牲者の数では、内戦終了後に南部で起こったことに比べると見劣りする。ヂェニーキン権力は崩壊した。新権力が樹立され、それとともに復讐によるテロルで血の川ができた、単に復讐のために。これはもう内戦ではなく、積年の敵の繊滅であった。これは未来に向けて怯えさせる行為であった。ボリシェヴィキはオデッサで二〇年に三度登場する。毎日一〇〇人か、それ以上の銃殺が行われた。死体がトラックで運ばれる。『最新ニュース』編集局が受け取った私信は次のように伝えている。「われわれは火山の上で生きているようだ。毎日市内のあらゆる地区で反革命家の張り込み、捜索、逮捕が行われている。家族を破滅させるには、義勇軍に入ったことのある肉親が家族にいることを誰かに通報すればよかった。そこで家族全員が逮捕された。昔と違い、ボリシェヴィキは銃殺した者の名前を公表することもなく、犠牲者を速やかに処刑している」。オデッサの実情に非常に精通した『全般状況』のコンスタンチノープル特派員レオニードフは、一連のルポルタージュ、「何がオデッサで起こっているか」の中で、それにわれわれは再び触れることになるが、この頃のオデッサでの激動する実態を描いている。彼の言葉によれば、銃殺された者の数は、公式資料によれば七〇〇〇人に達する[原註]。一晩に三、四〇人が、ときには二、三〇〇人が銃殺されている。個々に銃殺するにはあまりにも犠牲者が多いため、このとき機関銃が活躍する。監房全部から引き立てられて一人残らず銃殺されたために、当時は銃殺された者の名前も公表されていない。これは誇張されているだろうか。その可能性もあるが、ドニエプルを渡河するのをルーマニアに認められず、ブレードブ将軍の軍にも参加できず、ルーマニア国境で捕らえられた将校全員が銃殺されたように、これもまったくありそうである。その数は一二〇〇人を数えた。彼らは強制収容所に収監され、次々と銃殺された。[二一年]五月五日にこれら将校の大量銃殺が行われた。『イズヴェスチャ』にも宣告された、間近に迫る銃殺についての報道をどうしても信じたくない。夜に教会で「弔いの」音が響いた。この報道の記者によれば、一連の僧侶がこの罪を問われ革命裁判所に呼び出され、五年から一〇年の強制労働の判決を受けた。

 ボリシェヴィキを裏切ったガリチ[ドニエストロ河畔の都市]住人への懲罰がそのときに行われた。チラスポリ守備隊は全員が銃殺された。すべてのガリチ住人が裏切ることを考え、オデッサから後送する命令が出されたが、彼らが荷物を持って妻や子供を連れて貨物駅に集まったとき、機関銃が彼らを銃撃した。『イズヴエスチャ』には、プロレタリアートを裏切ったガリチ住人は怒り狂った群衆の犠牲となったとの報道が載せられた。

 [原註]「住民は犠牲者を一万から一万五〇〇人と見ている」と、特派員はつけ加える。もちろんこれは日常的噂であり、この世上の風聞は殺害された実数を確定するには役立たない。同じ「全般状況」の別の特派員P・スロヴツォーフは銃殺された数を著しく少なく見積もっている(二一年五月三日)。コムソモール協議会で行った県チェーカー議長ヂェイチの報告資料を引用し、筆者は二〇〇〇人の数字を挙げる。彼は、「多分この数字は実際より少ないであろうが、闇の部分を推定することはでき、殺された数はほぼこのようであろう」と、指摘する。まず問題は県チェーカーの資料の日付にある。例えば、ヂェイチは二一年七月から活動を開始した。オデッサ・チェーカーの報告書だけでも二月までに銃殺された者は実際に一四一八人を数えた。*一八年七月三〇日づけ布告により、教会の鐘を鳴らしたりして人を集めるのは処罰された。

 銃殺はクリミア占領後もまだ続く。「わたしの取材相手は異口同音に一一九人の銃殺された者の名簿が公表されたのは[二〇年]一二月二四日以後ではなかったと断言している」と、特派員は伝えている。実際この日に三〇〇人以上が銃殺されたと、風聞はいつものように根拠がないわけでもなく執拗に囁かれる。これは反革命的ポーランド組織に荷担した罪による銃殺であった。「ポーランドの陰謀は」「失業していた」チェキスト自身によって煽られたと、一般に認められている。さらに「ヴラーンゲリの」陰謀が続く(スパイの罪で「三一人」、貿易汽船会社職員六〇人が銃殺された)。

 ボリシェヴィキはエカチェリノダールにいた。監獄は超満員であった。逮捕者の大部分は銃殺された。エカチェリノダール住人は、二〇年八月から二一年二月までにエカチェリノダール監獄だけで約三〇〇〇人が銃殺されたと、確信している。

 「銃殺がもっとも頻繁であったのはヴラーンゲリ陸戦隊がクバニに上陸した九月である。このときチェーカー議長は、「チェーカーの監房[の囚人]を射殺せよ」と命じた。尋問前の収監者が大勢いて、彼らの多くは夜八時以降の外出禁止令に違反した罪でたまたま拘束されただけであると、チェキストの一人、コソラポーフは反対意見を述べ、「彼らを選別し、残り全員を始末せよ」と回答があった。

 命令は正確に遂行された。銃殺から九死に一生を得た市民ラキチャーンスキィはその遂行のおぞましい光景を描いている。

 「逮捕者が一〇人ずつ監房から連れ出された。最初の一〇人が引き出されたとき、彼らを尋問に連れて行くのだと聞かされ、われわれは安心した。だが次の一〇人が連れ出されるときには、銃殺に連れ出されることがはっきりと分かった。屠場で家畜を殺すように殺された」と、ラキチャーンスキイは述べている。撤収の準備でチェーカー書類が荷造りされ、銃殺は所定の手続きなしで行われていたので、ラキチャーンスキイは助かることができた。「殺害に連れ出された者は何の罪かと質問されたが、外出禁止の八時以後にエカチェリノダールの通りにいてたまたま捕らえられた者はほかの者と区別されることを思いついて、将校として告発されたラキチャーンスキイは、自分もたまたま遅くに通りに出て捕まったのだと申告して、難を逃れた。トップに立つチェーカー議長を含めてチェキストのほとんど全員が銃殺に携わった。獄舎ではアタルベーコフ[チェーカー特別全権]が銃殺した。銃殺は幾晩も続き、監獄周辺の住民を恐怖に陥れた。この日に全部で約二〇〇〇人が銃殺された。

 誰が何の罪で銃殺されたかは、秘匿された。チェキスト自身がおそらくこの報告書を出すまい。というのは、仕事として、サディズムとしての銃殺は、彼らにとって特別な手続きなしに行われる日常茶飯事であったので。…」

 さらに銃殺が行われた。一〇月三〇日に八四人、一一月に一〇〇人、一二月二二日に一八四人、一月二四日に二一〇人、二月五日に九四人と。これらの事実を確認する文書もある。エカチェリノダール・チェー・カーは監査を目前にしてそれらを破棄した。「「銃殺せよ」と明記された判決が束になっているのを、われわれは便所で見つけた」と、同じ目撃者は証言する。さらにこの時期のエカチェリノダールの日常的光景を引用しよう。「八月一七日から二〇日のエカチェリノダールにおける日常生活は、コサック村付近に上陸したヴラーンゲリの黒海沿岸陸戦隊の市内への接近によって破られた。パニックの中で特別全権アタルベーコフの命令により、県チェーカーと特別部の全逮捕者、および監獄の全収監者が銃殺された。その数は一六〇〇人を超えた。県チェーカーと特別部から、虐殺の運命にある者が一〇〇人ずつかたまって橋を通ってクバニに連行され、そこで息の根を完全に止めるまで機関銃で銃撃された。監獄においてもその壁の前で同じことが実行された。このことは公表もされた。「報復」と見出しをつけ、殺害された者の名簿が公表された。実際よりもいくらか少ない数が名簿に記載された。潰走の中で征服者[ボリシェヴィキ]は労働者に、自分たちとともに撤退する義務を宣告した。そうしなければ、戻ってきたなら残留者全員を電柱に吊すと脅した」

 *九月二九日に、ヴラーンゲリ陸戦隊の上陸によって北カフカースの匪賊運動は活発になり、割当徴発は停止したとの現地からの電報を受け取った食糧人民委員部全権により、この電報は食糧人民委員代理を通じてレーニンに届けられ、狼狽したレーニンは彼に、「密かに」この電報をトロツキーに回覧するよう指示した。

 同様なことがヴラーンゲリの脅威に晒されたエカチェリノスラフからの撤退の際にも生じている。本質的にこれと同じことが常に起こっている。ヴィンニツァとカメネツ=ポドリスクからソヴェト軍が撤退し、ウクライナ執行委の『ハリコフ・イズヴェスチャ』に二一七人の銃殺された人質名簿が公表され、その中には農民、一三人の国民教育教師、医者、技師、ラヴィ、地主、将校が含まれる。ほかに誰がいるだろう。もちろん、侵略軍も同様なことを行っている。後日赤軍がカメネツ=ポドリスクを占領した際に、八〇人のウクライナ人が銃殺された。一六四人の人質が捕らえられ、地の果てに送られた。

 同じく『革命ロシア』特派員は、ロストフ=ナ=ドヌにおける新権力の最初の数ヶ月間の活動を描いている。「ブルジョワジーを、商店とおもに協同組合倉庫を、……公然と容赦なく掠奪している。街路で、将校の家で、殺害し斬り殺した。…タガンローグ大路とテメリツカ通りで重傷患者と肉体的に動く力もない重篤の将校がいる陸軍病院が放火され、そこで四〇人が焼き殺された。……全部で何人が殺され、斬殺されたかは知るよしもないが、それでもこの数字は少なくない。ドンでソヴェト権力が強化されるにつれ、次第にその活動の方法が見えはじめた。まず怪しいコサック全員が捕らえられた。ペーテルスに鼓舞され、チェーカーが活動を開始した。銃撃音が聞こえないように、二機の発動機が絶え間なく動いていた。……まったく頻繁に自身(ぺーテルス)がコサックの処刑に立ち会っている。……束になって銃殺された。一晩で銃殺された者が九〇人になったこともあった。八、九歳の彼の息子は彼にまとわりつて、いつも「パパ、ぼくにもやらせて」とせがんでいると、赤軍兵士たちは語っている。……」

 チェーカーとならんで、革命裁判所と革命軍事評議会が活動し、それらは被告を「戦争捕虜」としてではなく、「煽動者と匪賊」として審理し、何十人と銃殺している(例えば、ロストフでのスーハレフスキイ陸軍大佐、エカチェリンブルグのコサック、スネギレーフ、トゥアプセ[スタヴロポリ県]での学生ステパーノフ事件など)。

 そして、再び不幸なスタヴロポリ県で、逃亡した夫を密告しなかった罪で妻が銃殺され、一五、六歳の子供と六〇歳代の老人たちが処刑されている。……機関銃で銃殺され、ときには軍刀で斬り殺されている。ピャチゴルスク、キスロヴォドスク、エッセントゥーキ[いずれも北カフカース]で毎晩銃殺が行われている。「血には血を」の見出しの下に名簿が掲載され、その犠牲者はすでに二四〇人を超えているが、その下に「名簿は続く」と書かれている。これらの殺害は、ピャチゴルスク・チェー・カー議長ゼンツォーフと軍事コミッサール・ラーピンの暗殺に対する報復として行われる(彼らは「自動車に乗車中に」騎馬兵のグループに殺害された)。

 ヴラーンゲリ以後のクリミア

 ヂェニーキン権力の崩壊後の数ヶ月はこのように過ぎた。ヂェニーキンの後にヴラーンゲリが続いた。ここでは犠牲者数はすでに数万を数える。クリミアは「全ロシアの墓場」と呼ばれた。われわれはクリミアからモスクワに到着した大勢から、何千もの犠牲者について聴いた。五万人が銃殺された、と「人民のために』(一号)は伝えている。犠牲者のほかの数字は一〇から一二万、さらには一五万を数える。どの数字が現実と合致しているのかをわれわれはもちろん知らないが、それは指摘されているよりはるかに少なくともよいではないか[原註]。そのことが、総司令官フルーンゼにより「恩赦」を与えられた人々への処罰の残虐さと恐怖を本質的に減ずることになろうか。ここで有名なコムニストでありジャーナリストのクーン・ベラが活躍し、彼は次のように声明するのをいとわなかった。「一人の反革命家もいなくなるようなクリミアにしなければならないと、同志トロツキーは語った。クリミアは一人の反革命家も飛び出せないような瓶である。クリミアは三年間革命運動で後れを取ったので、それを速やかにロシアの全体的革命水準に引き上げよう。……」

 [原註]H・C・シメリョーフはローザンヌ裁判で、一二万人の老若男女が銃殺されたと証言している。シーピン博士の証拠に基づき、彼は当時の公式ボリシェヴィキ報道は銃殺された数を五万六〇〇〇人と確定したと断言している。(メリグーノフ 著『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)』 88~94頁)

 『まったく頻繁に自身(ぺーテルス)がコサックの処刑に立ち会っている。……束になって銃殺された。一晩で銃殺された者が九〇人になったこともあった。八、九歳の彼の息子は彼にまとわりついて、いつも「パパ、ぼくにもやらせて」とせがんでいると、赤軍兵士たちは語っている。……』タイトルにある「パパ、ぼくにもやらせて」はこの部分を取り上げたものである。この本を読んである意味、最も衝撃を受けたのがこの部分である。チェーカーの八、九歳の子供が銃殺現場にいて、機関銃の引き金を僕も弾きたいとせがんでいるのである。殺人がごくありふれた子供の遊びとなっている。この子はどのような大人に成長するのだろうか-

 ロシア革命の推移

 続いて、イデオロギーと経済の側面からロシア革命の推移を考察していきたい。これがテロを生み出す背景になるものである。当然テロはイデオロギーから生み出されているが、この共産主義イデオロギーは経済と一体化しているために社会生活の隅々まで浸透していく。テロの雰囲気は日常的なものになっていくのである。

 ・・・最も重要なことは次のことであろう。ボリシェヴィキは社会主義経済計算論争の対象となった計画経済を目的として革命を起こしたわけではない、ということである。 ボリシェヴィキの革命の目的は 、言うまでもなく唯物史観におけるプロレタリアート独裁から共産主義社会に向かうためのものである。本論(マルクス主義の解剖学)における完全な兼任を実現することなのである。

 プロレタリアート独裁は経済の分野では当然、労働者自主管理となる。その結果どうなったか ー経済は壊滅的機能不全状態となり、ボリシェヴィキはその状態に対応を迫られることになった。労働者が好き勝手に部品を製造しても全体を統制する頭脳労働がなければ、それは何もしていないよりも悪い状態になる。もちろん、その時はボリシェヴィキも労働者も身体労働と頭脳労働の完全な兼任が必要などとは全く考えていなかったのである。その完全な兼任の不可能性を証明したのが本論である。このままではボリシェヴィキもロシア社会も破滅してしまう。そこで急遽、官僚やブルジョワ専門家が再登用され、上意下達式の厳しい指令経済が始まった。それが社会主義経済計算論争の対象となる計画的指令的経済が構築されていく端緒なのである。それが始まったのは革命からわずか5ヶ月後のことである。すなわち、本来のプロレタリアート独裁から共産主義社会に向かう試みがなされたのは、革命後わずか5ヶ月間に過ぎない。そして、それは二度と試されることはなかったのである。

 一度、計画経済が構築されてしまえば、プロレタリアート独裁など入り込む余地は全くなくなる。だから、トロツキーは計画経済の構築を始めた当事者でありながら、プロレタリアート独裁に未練を持ち続け、スターリンに追われた後、「労働者による第2革命」などと言い出したのである。すなわち、ソ連の計画経済とは最初からの目的ではなく、唯物史観の文字通りの実践が失敗に終わり、緊急避難した状態だということである。

 唯物史観の社会主義と計画経済の社会主義

 ここでどうしても社会主義という用語の定義の曖昧さを問題にしなくてはならない。これは非常に多義的であり、様々な使われ方をしている。そして定義が曖昧なまま使われ続け、混乱をきたしているように思えるのである。ここで問題にしたいのは、唯物史観における社会主義と計画経済における社会主義という用語の使われ方である。唯物史観においては共産主義革命が起こり、プロレタリアートが 独裁する過渡期があり、それから無階級社会である共産主義社会へ至るということになっている。ところがマルクスは共産主義社会の前段階として社会主義の段階がある、とも言っている。これがまた曖昧であり抽象的である。プロレタリアート独裁とこの社会主義社会との関係もどうなっているのかよくわからない。しかし、共産主義社会の前段階ということは無階級社会への志向を持っていることは明らかである。一方、計画経済においても社会主義という言葉が使われているが、こちらは中央当局による計画的指令的経済であり賃金の平等や完全雇用を重視しているだろう。しかし、唯物史観の社会主義とは決定的に異なる点がある。計画経済はそれ自体において、無階級社会への志向性を持ってはいない。むしろ中央当局の統制による、ということは階級制は固定化、強化されさえするだろう。つまり、唯物史観の社会主義と計画経済の社会主義は別物とみなした方がよい。

 ところが、多くの犠牲を伴い達成された革命が実は失敗して緊急避難した経済が計画経済だ、ということをボリシェヴィキは決して認めることができない。そのようなことを認めれば自らが破滅してしまうだろう。「共産主義社会への試みは失敗しました。今の計画経済は緊急避難したものです」などとボリシェヴィキが言うはずはないのである。そして、好都合なことに唯物史観の共産主義社会の前段階として社会主義社会があり、計画経済も社会主義とみなされている。そこで唯物史観の社会主義を計画経済の社会主義にすり替えたのである。そしてこれが共産主義社会に向かう前段階の社会であると宣伝したのであり、世界はそれを真に受けてきたのである。

 だから、ソ連の社会主義計画経済を唯物史観からの逸脱とみなす論調は至る所に現れてくる。ソ連= 国家資本主義論などもその一つである。大半の共産主義者が社会主義経済計算の問題に無関心になれるのもこれが理由である。つまり、自分達は失敗しない、自分たちがやれば完全な兼任を達成できる、共産主義社会への道を歩むことができると考えているのである。

 レーニンの変遷

 唯物史観の文字どおりの実践が失敗に終わった革命後の状況に対する見方と、革命以前にはどのように考えていたかという事の違いを比べてみると、誰しもが唖然とするしかないレーニンの変遷を見ることができる。

 したがって、理論家であるとともに実践家でもあったレーニンにしてからが、革命直前の諸論文のなかでは、その後の社会主義建設の実情から見るなら、ほとんど荒唐無稽な夢想の観がある一連の構想を書きつづっていたのは不思議ではない。1917年の10月革命が成功する2ヵ月前に、彼は『国家と革命』でこう認めた。

 「資本主義的文化は、大規模生産、工場、鉄道、郵便、電話その他を造り出した。そしてこの土台のうえで、ふるい《国家権力》の機能の大半は、非常に単純化され、記帳、登録、照合といったもっとも単純な作業に還元されうるので、これらの機能は、読み書きのできるものなら誰にでも、完全にやりうるようになり、またこれらの機能は普通の《労働者賃金》で完全に遂行されうるようになり、これらの機能から何らかの特権的な《お役所風》なものの一切のかげをとり除くことができる。例外なしに、すべての公務員の完全な選挙制および随時の解任制、彼らの俸給の《労働者賃金》への引き下げ―すべてこれらの簡単で《自明な》民主主義的諸方策は、労働者と農民の多数との利害を完全に結合しつつ、同時に資本主義から社会主義への橋わたしの役割を果たすものである」。

 資本主義文明の発達と成熟は、高度の工業社会を造り上げることによって、社会主義のための物質的条件を用意するだけではない。同時に「万人」が実際に国家行政や社会主義企業の運営に参加できるような前提条件をも生み出す―これこそが、レーニンの内奥の信念であった。「このような前提条件に属するもの」として、彼は先進資本主義国において実現されている一般義務教育と、「郵便、鉄道、大工場、大商業、銀行事業などのような社会化された大規模の複雑な装置による幾百万の労働者の教育および訓練」とを指摘した。こうした諸条件が満たされている以上、「資本家および官僚を打倒して、生産と分配の統制、労働と生産物の計算の仕事において、武装労働者、1人のこらずの武装人民をもって(打倒された資本家と官僚に)取り替えるのは、直ちに、今日明日にでも、充分に可能である。・・・・・すべての市民は、ここでは武装労働者からなる国家に雇われた事務員に転化する」。

 当時レーニンがどんなにナイーヴであったかは、革命のわずか2週間ほど前に書いた論文、「ボリシェヴィキは国家権力を保持するか」においても、いかんなく発揮されている。彼はこう書いた、「ロシヤはわずか24万人のボリシェヴィキ党員によって、貧民大衆の利益のために、富者のためでなく、統治することはできそうにない、と人は言う。だがわれわれは一挙に国家機構を10倍に増大するための《魔法の手段》をもっているのだ。それは資本主義国家がもたなかったし、またもちえなかった手段である。この魔法とは、労働者、貧民を国家統治の日常的な業務にひき入れることなのだ」。ポリシェヴィキだけが握っているこの「魔法の杖」を一振りとすると、どのような状況が現われるであろうか?これについてもレーニンは具体的な情景を描いている。要するにそれは、成人男女の大衆すべてが、古代ポリスの市民さながら、融通無碍にある時は警官に、ある時は執達吏に、ある時は裁判官に、ある時は企業経営者にと姿をかえる情景なのだ。この時代のレーニンの著作は、下からの大衆の自発的な創造的エネルギーをほとんど盲目的に信頼し、それに依拠する点で、きわめて濃厚なアナルコ・サンジカリスト的色彩を帯びている。「労働者管理」というスローガンは、レーニンにとっても、アナルコ・サンジカリストにとってと同様に、社会主義社会と国家経済運営上の一切の政治行政的問題を解決する魔法の杖であった。

 10月革命直後に、レーニンが「労働者管理条令草案」を認め、その第一条に、「労働者および勤労者合わせて5人以上の、あるいは年間取引高1万ルーブル以上の、すべての工業、商業、銀行、農業およびその他の諸企業において、すべての生産物および原料の生産、保管、売買に関して、労働者管理を実施する」と書いたのは、このような楽観的精神においてであった。そこにはまた大衆のアナーキスト的ムードを吸収し、それに依拠して革命の権力を掌握維持しようと企図する戦術的考慮もはっきりと表現されている。実際、革命直後に労働者たちは、政府の法令をまつまでもなく、資本家たちを逐い出して工場施設を次々と占拠していた。従ってレー二ンは、このような労働者たちの下からの自然発生的な意識と行動に事後承認を与えたわけである(勝田吉太郎『知識人と社会主義』94、95頁)。

 このように革命前、レーニンは極めて楽観的だったが、革命後の労働者自主管理の壊滅的機能不全状態に落胆し、その態度を180度変えることになる。

 「はたして労働者各人が、いかに国家を支配するかを知っているであろうか?実際的な人間なら、それがおとぎ話であることを、わきまえているのだ」。「あらゆる国々の歴史は」とレーニンは説いている。「労働者階級がそれ自身の独力だけでは組合主義的意識しか、つまり組合に団結し、雇傭主と闘争し、労働者に必要なあれこれの法律の発布を政府からかちとる、などのことが必要だという確信しかつくり出すことができないことを証明している。これに反して、社会主義の教説は、有産階級の教育ある代表者、インテリゲンツィヤによって生み出された哲学的・歴史的・経済的理論のなかから成長してきたのだ」。社会主義思想を生み出した主要な思想家たちの中にプロレタリア階級出身のものはほとんどいない。それは有産階級のインテリゲンツィヤによって生み出されてきたものであることは歴史の事実である。しかし、レーニンがこのように言ったとき自分の置かれていた立場、そのときのロシアの状況がこれら先行する思想家たちのいかなる立場とも、さらに革命前の自分の置かれていた立場とも、まったく異なるものになっていたということをどれほど自覚していたのだろうか?すでに、レーニンとボリシェヴィキはルビコン川を渡っているのである―此岸にいるのではなくすでに彼岸への橋を渡り始めているのである。社会主義革命はすでに現実のものとなったのであるから、社会主義の教説の通りに事態が進行するかどうかが最重要事である。しかし、現実にはまったくその通りにはならなかった―プロレタリアートは主役にはならなかったのである。そのことの理由として以上のようなことを持ち出すというのは信じ難い自己欺慢である。これでは社会主義の教説が誤りであったということを自ら認めているようなものである。社会主義、共産主義思想とは一部のインテリゲンツィヤが労働者階級に投影した自己の観念、願望、イメージでしかないことを暴露しているようなものである。

 ところが、革命という賭けに出てそれが成功した以上、もう絶対に後戻りは出来ないのである。ボリシェヴィキは権力を維持していく以外に生き残る道は残されてはいない。このことは肝に銘じておく必要がある。クーデターが成功して権力を獲得し、立憲民主党、貴族、ブルジョワジーらを直ちに弾圧、追放し、憲法制定議会を強制解散し、ニコライ二世とその家族を抹殺し、内戦によってロシア全土を戦場と化し、戦争とテロによって膨大な犠牲者を生み出しながらその権力を保持することに成功したのである。それはすべて社会主義、共産主義の大義のためであった。これが根本的に誤りであったなどということになれば、レーニンとボリシェヴィキは大衆に、そして味方である共産党員からも八つ裂きにされてしまうだろう。しかし、いまや社会主義の正当な主張をする者を徹底的に押さえ込まなくてはならなくなったのである。

 プロレタリアートに対する独裁をプロレタリアートの独裁と詐称せざるをえなくなっている。この時からボリシェヴィキの権力主体が「プロレタリアート独裁」といった時には、それは実質的には「プロレタリアートに対する独裁」を意味するものでしかなくなったのである。そうしなければ、自らが存在することすら出来なくなる―これはまったく震撼すべきことである。この状態は誰がどう見てもプロレタリアートの独裁などではない。民主主義、言論の自由という見地からすれば、もはや風前の灯火である。誰もが当然と思えるような状態をその通りに表現すると、権力は存在することが出来なくなってしまう。それは権力にとっての破滅を意味している―しかし、権力は秘密警察という強力な権力装置をもっているのである。秘密警察による言論弾圧、民主主義の抑圧は当然の論理的帰結であることがわかる。そしてさらにイデオロギーの理念からその矛盾は増幅されるだろう。社会主義、共産主義とはまさに民主主義の徹底した形態だからである。ボリシェヴィキの権力主体はいかなる強制力を持ってしても、その強制力で言論弾圧、民主主義が抑圧されているなどということを表現させてはならない。それらは十分に満足させられている、ということでなければならないのである。それは単に上辺だけのものであってはならないだろう。心の底からそのように思いこませなくては不十分である。社会構成員の心の底まで制御しなくてはならない―全体主義への道は開かれたのである。

(次回に続く)

共産党のテロの始まり-レーニンとロシア革命


 これまで共産党のテロをソ連共産党のスターリン時代に焦点を当てて考察してきたが、そこからさかのぼり共産党のテロの始まり、その初動がどのようなものであったかを考えてみることにしたい。それはいうまでもなくレーニンとロシア革命である。 1917年に第一次世界大戦の混乱の中でそれまでロシアに君臨していたロマノフ王朝が崩壊し、政治状況が混沌としている中でレーニンの率いるボリシェヴィキ(ソ連共産党)がクーデターによって権力を奪取したのである。それが現在まで100年以上続く共産党のテロの始まりとなったのである。それこそ現在の日本もその危機の中にいるのだが、ほとんどの日本人はその危機意識が全くないといってよいだろう。

 ロシア革命

 1917年10月25日(新暦11月7日)レーニンとボリシェヴィキはクーデターによって、その権力を掌握した。ついに社会主義革命のルビコン川を渡ったのである。ここに至るまでの経過は、多くの書物によって研究され、描かれてきたことであるがボリシェヴィキにとって多くの幸運が重なったことがわかっている。蜂起の段階で権力の掌握は確実なものとなっていた。しかし、その権力を維持することは非常な困難が待ち受けていたのである

 革命が成功したそのとき、人類がいまだかつて経験したことのない、マルクス主義、共産主義イデオロギーのイデオロギー空間が形成された。それは目に見えない衝撃波となって地球全体を駆け巡ったのである。レーニンは『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』の冒頭部分でこのように書いている「マルクスの学説は正しいから、全能である。その学説は完全で均整がとれており、どのような迷信とも、どのような反動とも、またブルジョワ的抑圧のどのような擁護とも妥協できない、全一的な世界観を提供している」これは唖然とするような文章である。ある学説の正しさが、どうして全能性へと結果するのだろうか。

 ブルジョワジーや貴族、立憲民主党に対する弾圧は、革命直後に始まっている。そして、官僚のストライキや反革命分子を取り締まり、弾圧するための秘密警察、チェーカーはジェルジンスキーの指揮のもと革命後2ヶ月足らずで設立された。恐るべき20世紀秘密警察の典型的な雛型が形成されていったのである。これらは白衛軍などの本格的なボリシェヴィキに対する挑戦がはじまるかなり前の事である。ここで注目しなければならない重大な問題は次のようなことである。この秘密警察はそれ以前の帝政時代の秘密警察とは根本的に性格が異なる、ということである。帝政時代の秘密警察は、イデオロギー上の目的ではなく専制体制を維持し、守ることが目的であった。しかし、チェーカーはマルクス主義、共産主義イデオロギーに奉仕するという目的があったのである。ジェルジンスキーは志操堅固な共産主義者であった。これは単にボリシェヴィキ体制を打倒する勢力から守るということのみが目的なのではない。ブルジョワジーとその勢力、あるいは旧体制の勢力がボリシェヴィキにとって危険であろうが、なかろうが、その階級であるということにおいて、収奪され、抑圧され、弾圧、抹殺されるべきものなのである。 

 赤色テロル

 ソ連崩壊以降、ボリシェヴィキの赤色テロルについての多くの新しい事実が明るみに出されてきた。そのことによって従来言われてきた「赤色テロルは白色テロルに対する仕方のない防衛として発動されたものである」という見解は、まったく事実に反するものであることが明らかになった。1918年8月30日のレーニン暗殺未遂事件から赤色テロルの宣言がなされたのであるが、10月革命直後からテロルは事実上、開始されていたのである。レーニン暗殺未遂事件はそのテロルを公然のものとしてとき放つことになったのである。10月革命直後、ボリシェヴィキはイデオロギーの立場が近かったエスエルやメンシェヴィキに対しては、直ちにテロルに訴えるようなことは起こさなかったが、ブルジョワイデオロギー政党である立憲民主党に対しては直ちに弾圧を行った。その中で、臨時政府で閣僚を経験したシンガリョフ、ココーシキンがボリシェヴィキ派の兵士によって射殺されている。これは1917年11月に起こったことである。レーニンは極秘指令によってチェーカーを創設し、テロルと弾圧をシステマティックに開始した。それ以降、レーニンの残虐な多くの指令はソ連崩壊まで隠蔽されていたのである。これらは現在では多くの文献によって読むことができるものであり、ここではその具体的な内容を引用してから、マルクスの理論、唯物史観と赤色テロルの関係を中心に考察してみたい。

 これはボリシェヴィキのプロパガンダを真に受けてきた左翼系知識人によって増幅されてきたものであるが、赤色テロルが白色テロルのやむを得ない防衛として起こされたものであるということは、事実に反しているだけでなく、そもそも論理的にいってもありえないことなのである。ボリシェヴィキは権力の座を維持するだけの従来の政権とは違う。権力を維持する目的だけならば、敵が攻撃してきた事に対する防衛としてテロルを発動するということは理にかなったことである。しかし、ボリシェヴィキは社会主義革命をおこなう―すなわちブルジョワジーと旧来の帝政派の勢力、資本主義社会の主要な担い手を弾圧し、撲滅するというイデオロギーの目的を持っていたのである。これらがテロルの先制攻撃の対象にならないということはほとんど考えられない。もし、テロルの先制攻撃が行われずに社会主義革命を遂行するという状態があったとすれば、これらブルジョワジーや帝政派の勢力が犬よりもおとなしく、ボリシェヴィキの言うことを聞くであろうということがわかっていた場合だけだろう。レーニンは10月革命を成功させ、権力を握った直後から当然のごとくこの先制攻撃の準備を始めた。それがどれくらいの規模になり、どのくらいの期間つづくかということはレーニンにも分らないことであったが、とにかくブルジョワジーの勢力に対する先制攻撃は絶対不可欠なのである。それはパリ・コミューンを分析したマルクスの『フランスの内乱』から導き出されてきたことでもあるだろう。コミューン勢力はブルジョワ政権を追撃し、打倒しなかったために反撃され壊滅したのであるから。

(引用開始)

 ロシアの歴史家で社会主義者だったセルゲイ・メリグノーフは一九二四年にベルリンで出版された『ロシアの赤色テロル』という本の中で、チェーカー(ソ連の政治警察)の初期の長官の一人だったラツィスが一九一八年十一月一日に部下に与えた次のような指令を引用している。「我々は特定の個人を相手に戦争をしているのではない。我々は階級としてのブルジョワジーを皆殺しにしているのだ。捜査の時、被告がソビエト当局に行動や口頭でどんなことをしたかを、書類や証拠物件で捜す必要はない。最初に質問することは、そいつがどの階級に属すのか、出身はなにか、どんな教育や訓練を受けたのか、職業は何かということだ。」最初からレーニンとその同志は、「階級戦争」の立場を明確にし、政治的・イデオロギー的敵、あるいは服従しない住民さえも敵と見なして扱い、容赦なく皆殺しにすべきだとした。ボリシェヴィキは自分たちの独裁政権に反対する者、抵抗する者を、たとえ彼らが受動的であっても、法律的にも肉体的にも抹殺することに決めた。それは彼らが政治的に対立する集団である時だけでなく、貴族、プルジョワジー、インテリゲンツィア、教会、専門的職業(将校、憲兵等々)などの社会的集団であっても同様で、しばしば彼ら全員を虐殺したのだった。(ステファヌ・クルトワ 他著『共産主義黒書 ソ連篇』 16頁)

 以下引用文は、(リチャード・パイプス著『ロシア革命史』)の第10章 赤色テロル からの抜粋である。1918年7月17日―すなわちレーニン暗殺未遂事件より前に―レーニンはニコライ二世の殺害を命じ、この日にニコライ二世と家族は召使いを含めて全員が虐殺された。

 彼らは午前一時三十分に起こされ、市は不穏な状態にあり、時たま乱射があるので、地下室へ移されると告げられた。午前二時に、重装備の守衛隊に連れられて、ロマノフ家の七人、侍医、侍女、そして二人の召使いが地階に降りていった。少しあとに、この家の司令官でありチェーカーのメンバーであるヤコフ・ユロフスキーという人物が、武装した守衛隊の一団を伴って、こんだ部屋に入ってきた。最近発見されたこの事件についての彼の回想録によると、続いて起きたことはこうであった。

 「一隊が入って、〔私は〕ロマノフ家の人々に、ウラル・ソヴェト執行委員会は、その親族がソヴェト・ロシアへの攻撃を続けているという事実を考慮して、彼らの射殺を決定したと告げた。ニコライは分遣隊に背を向け、家族の方に向かった。そして、気を取り直したかのように、向きを変えて、「何、何だって」と尋ねた。〔私は〕素早く、述べたことを繰り返し、分遣隊に用意するように命じた。隊員には、前以て誰を撃つか、そして、直接、心臓を狙い、多くの血を流すのを避け、より迅速に終わらせるようにと指示していた。ニコライは、もう、何も言わなかった。彼は、再び家族の方を向いた。他のものは、支離滅裂な叫び声をあげた。これは、全てで数秒間のことであった。そして、射殺が始まり、二、三分の間、続いた。〔私が〕ニコライをその場で殺した」。若いアレクセイは、床のうえで血の海のなかに横たわっていたが、しかし、まだ、息があり、ユロフスキーによって頭に二発撃ち込まれて止めをさされた。ユロフスキーのいうところの「処置」全体には、二十分を要した。

 死体は運搬車に載せられ、市から、予めこのために選ばれた場所に運び出された。そこで、身ぐるみを剥がされた。三人の娘がコルセットに大量のダイヤモンドを縫いつけていたことが発見された。刑の執行者たちがそれを盗むのを防ぐことに、ユロフスキーはかなり苦労した。死体には硫酸と灯油がかけられ、焼かれた。遺骸は浅い墓穴に埋められ、一九八九年まで発見されなかった。

 *ドイツを宥めるために、ボリシェヴィキはニコライの処刑のみを発表し、皇后とその子供たちは安全な場所に疎開していると主張していた。このような嘘を、体制はその後十年間、主張し続けたが、そのためあらゆる種類の伝説が生まれることになった。その最もよく知られているものは、一番下の娘のアナスターシア大公女が生きているというものであった。アナスターシアも、あるいは皇帝家族の他のメンバーでも、その虐殺から生き残りえた方法は、考えうる限り、全くない。エカチェリンブルクのソヴェトからクレムリンへの通信では、家族全員が死んだと伝えていた。トロツキーの日記もこの情報を確証している。

 目撃者によれば、一般に人々は、ニコライの死の知らせに全く冷淡に対応した。あるドイツ大使館員の言葉によれば、「身分の高い、冷静な人々でさえ、余りにも惨劇に慣れてしまっており、自分自身の気苦労や困窮で余りにも頭が一杯で、何か特別なものを感じることができない」のである。

 ニコライは、統治した君主として、歴史上、初めて処刑されたわけではなかった。他に二人のヨーロッパの国王が、革命の動乱のなかで命を失っている。一六四九年のチャールズ一世と、一七九三年のルイ十六世である。しかし、これは、ロシア革命に関する他の多くのことについても言えるのであるが、この事件のうわべの特徴はありふれたものであるが、他は、全て特異なものである。チャールズ一世は高等法院で審問され、自らを弁護する機会も与えられた。裁判は公開され、処刑も公衆の観るなかで行われた。同じことは、ルイ十六世にも言える。彼の運命は、国民公会の投票で決せられた。ニコライは告発されることも、裁かれることもなかった。ソヴェト政府は、彼に死を宣告したが、関連する資料を決して公表しなかった。ロシアの場合には、犠牲者は単に、廃位された君主のみならず、彼の妻、子供たち、そして召使いたちにも及んだ。真夜中になされたその行為は、法的な意味における処刑というよりも、ギャングによる大虐殺ともいうべきものに似ていた。

 エカチェリンブルクの悲劇に続く年月のうちにチェーカーが奪った何万という命と、その後継者によって殺された何百万の人々を考慮すると、捕らわれていた十一人の死は、異常な出来事とみなすことは殆どできない。それにもかかわらず、その虐殺は深い象徴的な意味をもっていた。第一に、それは必要のないことであった。もしボリシェヴィキが、かつてのツァーリが反革命の道具となることを本当に懸念していたならば、彼らには、ツァーリとその家族を、チェコ兵、あるいは、他のどんな敵も手の届かないモスクワへ移すだけの十分な時間があった。そうしなかったとすれば、ボリシェヴィキ政府に政治的に必要とする理由があったからである。一九一八年の七月には、政府は、モスクワのあるドイツ駐在員の言葉をかりれば、「生ける死骸」となっており、あらゆる方面からの攻撃にさらされ、その多くの支持者から見捨てられていた。痩せ細るその支持者たちを保守し続けるために、政府には流血が必要であった。これらの出来事を回想したもののなかで、トロツキーが、このことを大かた認めている。かつてのツァーリとその家族を処刑するという「決定」は、「単に得策であったのみならず、必要でもあった。この処刑の苛酷さが、我々が容赦なく戦い続け、何ものにも立ちすくむことがないことを、全ての人に示した。ツァーリの家族の処刑が必要とされたのは、単に脅し、恐れさせ、敵のなかに絶望の感覚を滲み込ませるためのみならず、我々自身の隊列を奮い起たせ、どのような後退もなく、前にあるのは、全面的な勝利か、全面的な破滅か、どちらかであることを示威するためでもあった」と、彼は書いていた。

 ドストエフスキーの『悪霊』の主人公らのように、ボリシェヴィキは、浮き足立つ支持者を集団的な犯罪という絆により縛りつけるために、殺人を犯さねばならなかった。ボリシェヴィキ政府が、無辜の犠牲者に対し道義心を問われることを多くなせばなすほど、平のボリシェヴィキは、ためらうことも、妥協することも何らないし、自分たちは指導者に離れがたく結びついていると認識せざるを得なかった。エカチェリンブルクの虐殺により、ソヴェト体制は、正式には六週間後に始まる、全面的な「赤色テロル」に一歩近づくことになった。その犠牲者の多くは人質から成っており、彼らは罪を犯したからではなく、トロツキーの言葉によれば、彼らの死が「必要とされた」ために処刑されたのであった。

 政府が、市民を行為によってではなく、その死が「必要とされる」が故に殺すという権限をほしいままにするということは、それは、ジェノサイドの分水嶺を越えて、全く新しい道徳の領域に入ることである。ボリシェヴィキがロマノフ家の人々に死を宣言した際に用いたのと同じ論法が、後に、ロシアや他のどこかで、新しい「世界秩序」のあれこれの構想の邪魔になる何百万もの名もない人々に適用されることになろう。

 大テロル

 自由な選挙では四分の一以下の票しか得られず、きわめて異常な社会的および経済的な実験を肯んじない個人やグループは何であれ敵とみなし、人口の十分の九を占める農民と「ブルジョワ」をアプリオリに階級の敵とみなす、そのような政党は、同意によって統治することはできず、テロルを恒常的に行使せざるを得なかった。この問題では、もし、権力の座に留まることを望むならば、そうするより他はなかった。テロルは、まさしく、ボリシェヴィキ体制のとる手段と目標のなかに組み込まれており、それ故、わずか一年しか続かなかったが、その原型とも言えるジャコバンとは異なり、その体制が存在する限り続いた。そして、テロルは、単に即決の処刑を意味するのではなく、無法状態の雰囲気があまねく広がっていることを意味していた。そこでは、支配する少数者はあらゆる権利をもつが、支配される多数者は何ら権利をもたないのであり、普通の市民には、全くの無力感を印象づけた。左派エスエルで、しばらくの間、レーニンの法務コミッサールとして働いたアイザック・シュタインベルグの言葉によると、それは「上から国の住民全体に投げ掛けられた重く息苦しい外套であり、不信、潜む警戒の気配、復讐への渇望から織りなされている外套」であった。それは、全ての人の生活に、明けても暮れても、影響を及ぼし、それを歪めるものであった。

 レーニンを支持し弁護する人々は、テロルに頼ることは、遺憾ながら彼には必要であったと正当化しようとした。コミンテルン第一書記のアンジェリカ・バラバーノフは、決して盲目的な信奉者ではなかったが、次のように書いている。「ボリシェヴィキによって開始されたテロルと弾圧は、不幸なことだったかもしれないが、それは、外国の干渉と、特権を守り旧秩序の再建を決意したロシアの反動家たちによって、ボリシェヴィキに強いられたものであった」。このような弁明は、疑問に答えるというよりも、さらに多くの問題を提起することになる。ボリシェヴイキがテロルの主要な機関であるチェーカーを設立したのは、一九一七年の十二月であり、外国からの干渉も、国内での組織的な反抗も起こる前であった。

 レーニンは舞台の背後からテロルを指導することにし、関係する布告は部下に署名させたとはいえ、全ての主だった決定は、彼が、直接行った。実に、彼が、気の進まない同僚と部下たちが良心の咎めを消し去って、「容赦のない」残虐な行為に出るように、繰り返しけしかけねばならなかった。彼の書いたものには、公表されたものにも、まだ文書局に眠っているものにも、単に処罰としてのみではなく予防策としても、吊るし首にしたり銃殺することを熱心に説くところが満ちている。

 彼がテロルを好んだ一例が、アイザック・シュタインベルグの回想に記されている。シュタインベルグは、他の左派エスエルと一緒に、ソヴナルコムにおいて、レーニンの布告「社会主義の祖国は危機に瀕す」を批判した。それは、「反革命アジテーション」を含め、定義の定かでないいくつかの犯罪カテゴリーに対して即決の処刑を命じるものであった。彼は「私は反対した」として、次のように書いている。

 「この残虐な脅しが、その宣言の情念全体を失わせている。レーニンは、嘲笑して答えた。『その反対だ、ここに、真の革命的な情念がある。きみは、最も残虐な革命的テロルなくして、我々が勝利することができると、本当に信じているのか」。この点で、レーニンと議論するのは難しく、我々はすぐに袋小路に達した。我々は、広くテロルが及ぷ可能性のある苛酷な警察措置を議論していた。レーニンは、革命裁判の名のもとに、私の反対に怒った。そこで、私は苛立って叫んだ.『それでは、何故、我々は法務人民委員部のことで思い煩っているのか。率直に、それを社会皆殺し委員部と呼び、それで我慢しようではないか』。レーニンの顔は突如として輝き、そして、彼は『そうだ、まさにそうあるべきなのだ―しかし、我々はそうは言えない―』と、応えた」。

 大テロル導入の第一歩は、法が廃止され、それが「革命的良心」と呼ばれるものに取って代えられたことであった。このようなことは、それまで存在したことがなく、ソヴェト.ロシアは、法を法の外においた歴史上、初の国家であった。この措置によって、当局は、彼らの道に立ち塞がる個人は誰であれ処理できることになった。「法に拘束されない統治」というレーニンの「プロレタリア独裁」の定義が実施されたのであった。

 一九一七年十一月二十二日に出された布告は、殆ど全ての裁判所を解散させ、法曹専門職を含め、司法制度と関係する職業を廃止した。それは、法令全書に基づく法を、明らかに無効であるとすることはなかったが―それは一年後のことである―、同じ効果をもたらした。その布告は、廃止されずに維持された地方裁判所の判事に「決定し判決を下す際に、打倒された政府の法に、それが革命によって無効とされず、革命的良心と合法性についての革命的認識と矛盾しない限りでのみ、依拠できる」と通告していたからである。(リチャード・パイプス 著『ロシア革命史』 218~226頁)

 1918年8月30日レーニンはモスクワで労働者に対する演説を行ったあと、女性テロリスト、カプランによって銃撃された。一時は危険な状態になったが、そのあと急速に回復し、10月には政務に戻った。同じ日にペトログラードでチェーカーの地方長官ウリツキーが暗殺され、それに対抗するためにボリシェヴィキは「赤色テロル」を宣言した。

 九月五日の布告は、「階級の敵」を収容所に引き渡し、「白衛軍の組織、陰謀、治安を乱す活動」に関係する人物を、全て即決で処刑することを命じていた。チェーカーとその県支部は、直ちに人質をとり銃殺することに取りかかった。ペトログラードでは、ジノヴィエフが五一二人の人質の大量処刑を命じた。彼らの大部分は、ツァーリ体制と関係していたが、何カ月も拘置所に入れられていたので、テロリストによるレーニン襲撃とは何ら関係をもちえない個々の人物であった。モスクワでは、ジェルジンスキーが、プロトポーポフを含む、何人かのツァーリに仕えた閣僚を処刑した。奇妙なことに、エスエルは、カプランの暗殺計画を立案指導したと告発されていたにもかかわらず、誰も処刑されなかった。エスエルが報復の仕返しをするのではないかという恐れは、きわめて現実味があった。

 ボリシェヴィキは、一種の殺人狂の異常な精神に捉えられていた。赤軍の新聞は、次のような言葉で人々をポグロムへと駆り立てた。「情け容赦なく、我々は、何百人という大量の敵を殺し、それを何千人ともし、やつらを自らの血の中に斃らせよう。レーニンとウリツキーの血の償いとして―ブルジョワジーの血でもって溢れさせよう、できるだけ多くの血をもって」。そして、ジノヴィエフは、九月半ばに共産主義者のある集会で次のように述べた。

 「我々は、ソヴェト・ロシアの一億の住民のうち、九〇〇〇万の人々の共感を得なければならない。残りに関しては、何も彼らに言うことはない。彼らは殲滅されねばならない」。これらの言葉は、体制の最高位にある一公人によるものであり、一〇〇〇万もの人間に対する死の宣告を意味していた。赤色テロルは、怯えた共産主義者が、現実および架空の敵から自らを守るため盲目的に人を殺したために、自らの勢いを増した。罪を犯しているということは、重大なことではなくなった。当時、法務委員部の一員を勤め、後の一九三六年にはその長となるN・V・クルィレンコは、そのことを「我々が処刑せねばならないのは、単に罪のある人々のみではない。無実の人を処刑することは、大衆にさらに一層大きな印象を与えることになろう」と、憚ることなく述べた。そのような哲学が実際に何を意味したかということは、キエフのチェーカーの一員の回想から窺い知れる。

 「もし、ルキアーノフ監獄に収容されている囚人が、突然、チェーカーに呼び出されたとすれば、そのように急ぐ理由に関しては、疑いの余地はない。公式に、収監されている者が自分の運命を知るのは、通常は午後一時という処刑の時間に、「尋問に」呼び出される人物の名簿を読む声が、小房に鳴り響くときである。彼は、監獄の事務局に連行され、そこで、その登録カードの該当するところに、普通はそこに書かれていることを読まずに署名をする。通常は、運命の決まったその人物が署名したあとで、何某は判決について知らされたと、その登録力ードに付け加えられる。実際は、これには、幾分、偽りがある。というのは、囚人は監房を出たあと、「丁重に」扱われるのではなく、彼らを待つ運命を面白そうに語られるからである。ここで、収容者は服を脱ぐよう命じられ、刑の執行のために連れ出される。……処刑のために、インスティテュート通り四十番の家屋のそばに、特別の庭が作られていた。……そこに、県のチェーカーは移っていた。……刑の執行者は、司令官か、あるいはその副官、時には彼の部下の一人であったり、時によっては、チェーカーの「アマチュア」であったが、裸にされた犠牲者はこの庭に連れて来られ、彼は地面に伏すように命じられる。そして、執行者は首すじに一発撃ち込み、その人物を片づける。処刑は、リボルバー、通常はコルトで行われた。銃撃はきわめて近い射程から行われたので、犠牲者の頭は、通常はばらばらに破砕された。次の犠牲者も、同様にして連れてこられ、通常は、もだえ苦しんでいる前の人の側に横たえられた。犠牲者の数が多くなりすぎ、その庭に収容することができなくなると、新たな犠牲者は、前の犠牲者の上に置かれるか、庭の入口で射殺された。……犠牲者は、通常、抵抗することなく処刑に赴いた。彼らがどんなことを経験したのかは想像だにできない。……たいていの犠牲者は、別れの言葉を述べる機会を求めるのが普通であった。そして、他に誰もいなかったので、彼らは、処刑執行者を抱き、キスをしたのであった」。

 そのように手当たり次第の流血を数カ月にわたって行ったあとでは、信念の堅い共産主義者でさえ、不安を感じ始めた。それは、人道にかられてというよりは、テロルは、結果として彼らにはね返ってくるのではないかという恐怖心からであった。時が示すように、それは、もっともなことであった。チェーカー要員が、自らの組織以外の誰にも忠誠を示さないとか、「そうしたければ」誰でも、レーニンでさえ逮捕できると豪語するのを、彼ら共産主義者は他にどう解釈することができたであろうか。彼らの批判に応えて、レーニンは、チェーカーの革命への功労に賞賛を惜しまなかった一方で、その権限をいくらか抑制した。一九一九年初めに、無差別のテロルは中止されたが、確実に反体制的な、あるいはその疑いのある人物に対して即決処刑が続けられるように、人質を取ることも続いた。

 ファニィ・カプランによる狙撃は、他にもう一つの結果をもたらした。それによってレーニンの神格化といった政策が鼓舞され、レーニンの死後、それは国家の支持を受け、まさに東方的な崇拝へと転化していくのである。レーニンは求めることにおいて控え目であり、彼の人格の賛美を何ら喜ばなかった。しかし、彼の支持者たちには、彼を崇拝する必要があった。その理由の一端は、国民にとって、国家は、統治者の人格に体現されてのみ意味をもちうるからであり、また、レーニンが体制を推進させる発動機であったことにもよる。半ば神の地位まで高められたレーニンが、そして、レーニンのみが、彼の命令に従うことが唯一の作動原則である政治機構へ、正統性を付与することができたのである。

 そして、一九一八年の八月三十日以降、それまで、自分たちの独裁者について殆ど知るところのなかったロシア人は、レーニンを「神の恩寵による指導者」(ジノヴィエフ)であり、実に新しいキリストであると賞揚するレーニン文献のまさに洪水にさらされているのに気づくことになる。レーニンの回復は奇跡として描かれ、それはレーニンという仲介をへて、人類に自由と平等をもたらす歴史の裁定であると説明された。一九二四年に彼が死んだあと、彼の後継者たちは、彼をミイラとして保存し、霊廟で人々に提示したのであるが、それは、彼がまだ生存中に順調に進んでいた神格化の過程を、彼らが制度化したにすぎなかったのである。

 一九二〇年までに、ソヴェト・ロシアは、保安警察が、事実上、国家のなかの国家として、国有化された経済を運営するために設置された巨大な機構を含め、いたるところにその触手をのばしていたという意味において、真の警察国家となっていた。チェーカーは、国家の安全とは通常は結びつかない広く多様な行動の監視を徐々に引き継ぐようになった。また、チェーカーは、「投機」―別の表現をすれば、私的な商業であるが―を取り締まる法令を施行するために、鉄道およびその他の輸送機関を監督した。一九二一年の四月には、一九一九年に内務コミッサールに任命されていたジェルジンスキーが、交通人民委員に任命された。官僚機構と企業で働く多くの「ブルジョワ専門家」によるサボタージュが起こり得るのを防ぐために、チェーカーはその手先を行政のあらゆる分野に配置した。それは、赤軍とは別に、着実にその軍事力を拡大し、一九二〇年代の半ばには、ほぼ二五万の部員を数えるまでになった。(リチャード・パイプス 著『ロシア革命史』 230~233頁)

 赤色テロルには多くの側面があるが、歴史家は、まず何よりその犠牲者に関心を向けねばならない。その数は、概数でさえ確定されていない。五万から一四万のあいだと推定されている。ただ、確実に言えることは、ジャコバンのテロルの犠牲者が数千人であったとすれば、レーニンのテロルは何万人もの命を奪ったということである。スターリンとヒトラーによって起こされた次のテロルの波による犠牲者は、何百万という数にもなる。大虐殺は何のためだったのか。

 ジェルジンスキーは、レーニンも繰り返すことになったが、テロルとその機関であるチェーカーが革命を救ったと自慢するのを好んだ。この主張は、「革命」がボリシェヴィキ独裁と同一視される限りでは、恐らく正しいであろう。ボリシェヴィキが体系的なテロルのキャンペーンを始めた一九一八年の夏までに、彼らが、自分たちの組織以外のあらゆる住民層から拒否されていたという証拠には、全く事欠かない。このような状況のもとでは、「容赦のないテロル」が、体制を保持する、まさに唯一の方法であった。

 このテロルは、「容赦のない」ものであるのみならず(「情け深い」テロルといったものを考えることができるだろうか)、無差別でなければならなかった。もし、ボリシェヴイキに敵対するものが、少数であると確定されるならば、彼らは外科的な除去の標的とされたであろう。しかし、ソヴェト・ロシアで、少数派を成したのは、体制とその支持者たちであった。権力に留まるためには、彼らはまず初めに、社会をアトム化し、ついで、そこで独立して行動しようとする意志そのものを破壊せねばならなかった。罪のない人の処刑に何ら良心の苛責を感じない体制のもとでは、罪を犯していないということは、生き残る保障とならないことを、赤色テロルは住民に思い知らせた。唯一の望みは、何が起ころうと宿命論的に受け入れるとともに、自己を全く消し去ることにあった。ひとたび、社会が、各々が人目を引くことを恐れ、もっぱら肉体的な生存にのみ関心をもつ人間のアトムの寄せ集めへと分解したならば、その時は、誰が何を考えようと問題ではなくなる。何故ならば、政府が、公的な活動の全域を独占するからである。このような状況のもとでのみ、数十万の人が、一億、あるいはそれ以上の人々を服従させることができたのである。しかし、そのような行為は、それを実行した人々には、安くつくものではなかった。ボリシェヴィキは、彼らが従えた圧倒的多数の人々の希望に反して権力に留まるために、見る影もない程に権力を歪めざるを得なかった。テロルは共産主義を救ったかもしれないが、しかし、それは、全くその魂を腐食させたのであった。(リチャード・パイプス 著『ロシア革命史』 234~236頁)

(引用終わり)

 ここで注釈させてもらうならば、「テロルが共産主義を救ったかもしれないが、しかし、それは、まったくその魂を腐食させたのであった」ということは、もしテロルの必要のない条件があったならば、その魂は腐食することはなかった―とも解釈出来そうである。しかし、後でまた詳しく検討するようにテロルは共産主義の本質的な属性なのである。そして、肝心なことはその規模と期間である。これがどれほど巨大で長期にわたるかはまた、検討の対象になるだろう。すなわち腐食は潜在されていたものが、顕在化したに過ぎないのである。

(次回に続く)

戦争より恐ろしい共産党のテロー大テロルはなぜ起きたのか


(前回の続き)

 前回から引き続き大テロルの検討をしてみたい。これも論文からの転載であり、わかりづらいところもあるかと思うが、雰囲気だけでも感じていただければと思う。これらの考察は非常に複雑なことになってしまうので、わかりやすくスッキリ説明することはとても不可能なのである。私がマルクス主義、共産主義を研究して得られた結論は、共産主義とはこの社会に「ひとつの脳 」を実現することだということである。これは通説では全くなく、私の個人的な結論であるが、例えば北朝鮮の「チュチェ思想」をよく説明してくれるものだと考えている。スターリン体制にしろ、北朝鮮の体制にしろ、目指すところは独裁者の「 ひとつの脳」が支配する世界であり、それ以外の人間は全て神経系、筋肉のような存在に転化させられてしまうということである。この論文ではそれを「イデオロギー超有機体」とよんでいる。これが左翼全体主義の構造をなしている。このイデオロギー超有機体を実現するためにひとつの脳に忠実な神経系、筋肉を作り出すことがテロルの目的である。すなわち独裁者に従わないような神経系があれば、それを排除するということになる。それを生物学の概念を使いアポトーシスと呼んでいる。これに基づいた全体主義論がアポトーシス全体主義論である。

 スターリン主義形成の考察

 ・・・これまでの考察により、権力が絶え間なく一個人へ集中していくメカニズムが論じられてきた。まず、ボリシェヴィキはマルクス主義、共産主義を原理主義的といえるほど信奉し、狂信していたという事実は、その歴史の結果がそのイデオロギーが目指すものとあまりにもかけ離れているという理由によって、えてして軽視されることが多い。パイプスのような歴史家でさえそのような傾向にある。しかし、多くの資料はボリシェヴィキのイデオロギーを共産主義の真摯な実践であると証明しているのである。それは1920年代、レーニンが活躍した時代から、それ以後の党内闘争の激しかった時期も、それがスターリンの権力確立から30年代の社会主義へ突進した農業集団化、超工業化の時代、さらに大テロルの時でさえそれは一貫している。ソ連崩壊後、公開された議事録などの多くの内部資料が示していることは、彼らが大衆に対して述べているイデオロギー的言説と同じことを共産党員に対しても、そして上層部の幹部たちの間でも、お互いに言い合っているということである。大衆に対して述べていることと、仲間内で言っていることの間にはまったく差異はないのである。まさにこれはイデオロギーを大衆操作の口実に利用しているということではなく、自分達もこのイデオロギーの虜になっていることを意味している。

 このことはスターリン主義形成が、ロシアの伝統的な専制体制の復活である、とはいえないことを結論づけるであろう。このイデオロギーとロシアの専制体制はあまりにも異なるものである。つまり、このイデオロギーの実践がロシアの専制体制と共通の要素を持つことになったのは、別のところに理由を求めなければならない。それは今まで問題とされてきた「全体主義論」の課題でもある。アーレントは「全体主義は今までのいかなる専制政治とも異なるものである」といったが、本質的にどこが異なるのかということは極めて難しいアポリアであった。スターリン主義がナチズムと同様な全体主義であるという問題は、両者の本質的な同一性、差異性の問題と関わってくる。さらに、スターリン主義をイデオロギーからの逸脱とみなす「ソ連=国家資本主義論」のように農業集団化、工業化、果ては大テロルまで特殊な資本主義の収奪の一形態にすぎない、というような捉え方は問題外である。「マルクス主義の解剖学」はたとえ何人であろうとも、このイデオロギーの正真正銘の実践においても、その目的とする状態に達しないことを証明したのである。

 すでに明らかなように、社会主義、共産主義イデオロギーを遂行することは、資本主義イデオロギーとは異なり、経済と政治が緊密に一体化する。経済は行政と一体化し、行政は党の独占的支配となり、党は国家と一体化する。党の中心には権力を一手に握る少数者がいて、さらにそのなかの1人の人間に権力は収斂していく。この権力の中心化作用は、このイデオロギーの原理的矛盾から生じたそれまでの権力形成とは根本的に異なるメカニズムによっているのである。最終的にこの原理的矛盾は1人の人間、それはすなわちひとつの脳によってしか止揚出来ないからである。権力が多数者に均等に存在すると、必ずイデオロギーの原理的矛盾から対立する二つ以上の関係が生じてくる。しかし、このイデオロギーの重要なもうひとつの側面、高度な生産力を維持するためには高い階層秩序による経済の統制、運営が不可欠になる。これは一枚岩の統率が取れた党によってしか運営出来ないのである。しかし、このイデオロギーは階級構造そのものを否定するがゆえにそのことを絶対に認められない。絶対的な統制とそれを絶対的に否定する対立関係、まさに究極的な内部破壊が進行することになる。この破壊を防止して、イデオロギー遂行状態を保持し続けるためには、この矛盾を一手に引き受けてすべての権力を握る独裁者が必然的に要請されるのである。

 トロツキーをはじめとする左翼反対派は、遅かれ早かれ駆逐される運命にあった。しかし、トロツキーが最後までスターリンに対する攻撃をやめなかったのは、このイデオロギーを信奉する共産主義者として当然のことであっただろう。スターリンは国外に追放されたかつての革命の英雄を軽視することは決してなかったのである。それはスターリンがロシアの専制体制を復活させる、という目的は微塵もなく、同じくイデオロギーを信奉していたことを物語っている。だからこそ、イデオロギー上の攻撃に対して非常に敏感になったのである。トロツキーの国外で発表される出版物にスターリンは激怒したと言われている。トロツキーの身辺にスパイを送り込み、常に監視を怠らなかった。1937年に出版されたトロツキーの『裏切られた革命』は、フランスでの出版よりも先に、スターリンのデスクの上に全文のコピーが届けられていたという。ヴォルコゴーノフはこれがスターリンに大テロルを決意させた引き金になったのではないか、と推測している。

 このスターリン体制に対する左翼反対派、それ以前には労働者反対派からの批判、攻撃は基本的にはすべて古典的マルクス主義に沿ったものである。そしてこの批判、攻撃は現代においてもその本質はほとんど変わらないと思われる。マルクス主義者、共産主義者、唯物史観支持者は同じような批判を繰り返している。しかし、これこそがこのイデオロギーの原理的矛盾の表出であり、そのことによってこの対立関係は絶え間なく増大し、そして最終的には肉体的抹殺によってけりがつけられるのである。この運動そのものがスターリン主義、スターリン体制を形成していく原動力となる。反対派の存在は、内部敵として体制に潜伏するものと捉えられ、それを殲滅するために超法規的な措置が次々と正当化される。それがこの恐怖政治を最大限に強化していくことになる。体制に逆らうことなど夢にも考えられないような状態になるまでそれは続けられることになるだろう。つまり、マルクス主義に沿った正当な批判はスターリン主義形成の重要な要素のひとつになるのである。それをすればするほどスターリン主義は強化されていくことになる。

 ブハーリンらを中心とした右翼反対派も、当然反対の側面から内部敵とみなされることになる。これはそのまま資本主義を利するもの、日和見主義者として断罪されることになる。ネップを長期に継続するような、富農との提携を重視する政策はもはやイデオロギーに反するものだとみなされたのである。右翼反対派は自分達の誤りを認めさせられ、転向を強いられた。党を絶対のものとみなすボリシェヴィキ共通の心性は、自分達の政策を転向しても党に残る方を選んだのである。しかし、農業集団化、工業化の悲惨な状況が明らかになっていき、党内は緊張の度合いを増していった。スターリンは疑心暗鬼になり、左翼も、右翼も、自分に反対する気配を見せたものも殲滅しなければならない―このように決意するに至ったのである。これは、自分を神のような存在として見る若い党員とは違うレーニン時代からの古参ボリシェヴィキの大部分を含むことになった。彼らはスターリンを指導者として認めても、絶対的な独裁者とみなしてはいなかったのである。

 スターリンの妻の自殺やキーロフ暗殺から緊張が激化していき、スターリンは大量弾圧へとエスカレートしていった。これらのことやその当時の状況から、キーロフ暗殺の首謀者はスターリンではないかという疑念があった。しかし、これは確たる証拠がなく難しい問題のようである。状況的にはスターリンは黒にしか見えないが、ここではその問題には深入りしないことにする。このような偶発事によって歴史は左右されていくように見えるが、ここでは深部で絶え間なく大きな力学が働き続けている。それがイデオロギーの原理的矛盾から来る権力の中心化作用である。これは普通の社会学で想定される権力の問題を大きく超えているのである。これはアポトーシス全体主義論で再度論じられることになる。

 1930年代は宗教、教育、文学、芸術といった文化的側面も大きく変わっていった。教育は帝政時代に比べると広く普及していき、文盲率は低下していった。これは共産党による政策の正の側面であるが、共産党のイデオロギーを教え込むという目的があった。文学や芸術は相対的に自由があった20年代に比べると、イデオロギー上の統制が厳しくなっていった。イデオロギーに反するもの、あるいはその可能性があると検閲されたものは、発表することを禁じられ、作者は職を失うことになった。体制に媚を売る作品が多くなり、文学、芸術はその活力を失っていったのである。このイデオロギーはそれ以前のあらゆるイデオロギーより、その矛盾が大きく原理的なものである。社会、世界の真実を追求するという文学、芸術の本領は当然、圧殺されざるをえない。イデオロギーの矛盾の暴露を許容することは体制にとっての破滅を意味する。至高の指導者であるスターリンの言説が唯一正しいものとみなされ、社会全体でそれが無数に反復されていくことになる。それに反するものは反革命、反ソヴィエトであり破滅が運命づけられるのである。言葉と現実の乖離はますます広がっていき、人々は二重思考の中で生きていくしかなくなったのである。

 しかし、この1930年代は混乱と非効率であったとはいえ、かなりの程度の工業化が達成された。それに伴い以前に比べて物質的な豊かさは上昇し、生活環境の改善が見られた。それは革命後の教育を受けた若い世代を中心に、新しい特権階級が形成されていき物質的な豊かさを享受できるようになったのである。それ以外の一般大衆の生活改善は遅く、特権階級との階級格差は非常に大きなものになっていった。新しい特権階級はスターリンに従順であり、神格化することに積極的であった。この階級は大テロル以降、社会の中心的な階級となり後にノーメンクラツーラと言われるソ連の官僚制を担うことになったのである。

 また、この時代は革命直後の禁欲的な雰囲気から、ブルジョワ的な雰囲気へと変わっていった。スターリン指導部が認めた文化活動、娯楽などが奨励され、大都市を中心に明るい雰囲気がかもしだされるようになっていった。宗教に対する統制は依然として厳しかったが、祝日などはある程度復活することが許された。そのなかで、空前絶後の大テロルが進行するというまさに想像を絶する社会が出現したのである。

 アポトーシス心性とテロルの必然性

 ボリシェヴィキ上層部においては、拷問や脅迫により「自分は外国のスパイであった」、「スターリン暗殺を企てていた」というようなまったく身に覚えのない罪を認めるように強要された。(これはボリシェヴィキ上層部だけではないが)見世物裁判の中で奇想天外な自白がなされ、それに続く処刑によって大量の古参党員が粛清された。そのなかには、ジノヴィエフやカーメネフ、ブハーリン、ルイコフといったレーニンとともにロシア革命を遂行し、社会主義建設にその身をささげてきた最重要の幹部も含まれている。

 これらの幹部とスターリンとの間は、これ以前には決して悪いものではなく、1920年代中頃または終わりまでの間は政治上の仲間であり、また個人的にも親密な関係があった。しかし、左翼反対派との対立、農業集団化に反対した右派との闘争、それに伴う更迭、農業集団化がもたらした大飢饉、非常に速いテンポの工業化とそれに伴う混乱、などから党内は緊張が激化していった。思うように進展しない工業化の原因をスターリンは内部敵の存在に求めた。そして、次第に党内部、幹部たちの中にも内部敵が存在し妨害している、あるいはスターリン体制を批判し、打倒しようとしている、という言説が中央委員会総会などで出されるようになり、そのためのスケープゴートが選ばれ、攻撃されるようになった。1932年頃からは、すでに大テロルにつながる内部敵をでっち上げて吊るし上げる、という党内部の雰囲気は強くなっていったのである。スケープゴートに選ばれたものは、身に覚えがなくても示された通りの罪を認めるということを強要された。それが党に奉仕することであると暗黙の共通認識があり、罪を否定するということはそれ自体、党にたいする裏切りであるとみなされたのである。つまり、真実がどうであるかはまったくどうでもよいことであり、スケープゴートはその役割を演じなければならないのである。(ただし、大テロル以前には肉体的抹殺まではいかず、中央委員や書記からの降格、党から追放というような処分だった。)スケープゴートは自らその役割を進んで買うことはありえなかったが、その役回りがまわってきたときにそれを認めること、その立場を甘受することをよしとする人も大勢いた。大局的に見ればこれは徐々にアポトーシスが作動し始めている、と見ることができるかもしれない。

 スターリンに早い時期から大テロルのマスタープランのようなものはなかった、ということは今では明らかになっている。スターリンは体制、社会がコントロール不能になるのではないかという恐怖からパニック状態になっていたのである。そのために場当たり的な対応が次から次へととられていった。しかし、これも非常に難しい問題であり、1937年初頭にはスターリンは大テロルの青写真を描いていたのかもしれない。この偶発性と計画性は複雑に絡み合って進展していったと考えられる。古参党員にたいする疑心暗鬼は頂点に達しつつあった。これは左翼全体主義の構造から考察すれば、イデオロギー超有機体の形成が完成に向かいつつある、ということを意味している。頂点のひとつの脳になり、それ以外の脳をすべて神経系と同じ存在にしなければならないという要請がスターリンの深層心理に存在している―このように仮定すれば、自分と極めて立場が近い、今は服従しているように見えたとしても、いつ自分は打倒され取って代わられるか分らない―このような古参党員は存在そのものが否定される。

 1937年6月、赤軍の多くの司令官が粛清されたのをかわきりに、大テロルの爆発が始まった。個々の事例に着目すれば、それがとてもアポトーシスという概念が適用されるとは思われないだろう。党員で粛清されたほとんどの人々は、主観的には党のために誠心誠意尽くしてきたと考えていたはずである。上層部に行けば行くほどこの傾向は強かった。彼らはイデオロギーに徹頭徹尾、忠実であろうとしたのである。だから、自分が反党行為の疑義をかけられて逮捕されるなどとは考えられなかったのである。同じような仲間が逮捕されていっても、とても信じられないが何とかそれに理由づけをして正当化しようとした。そして実際、自分が逮捕されると身の証しを立てようとするが、同時にスケープゴートの役割を演じなければならないという暗黙の了解が粛清される側にも、する側にもあった。そして、粛清する側の人間も容易にされる側へと移行してしまうのである。これが体制全体に深く、重く浸透していたアポトーシスの作用だといえるのではないだろうか。イデオロギーに忠実であるがゆえに破滅させられる―この恐るべき逆説が社会を覆い尽くしていたのである。革命初期に活躍していたものほどイデオロギー超有機体の形成に貢献するのと同時に、時間の経過とともに最も存在していてはならないものに転化してしまう―これがイデオロギーの論理そのものの中に最初からプログラムされてあったのである。つまり、大テロルの種子ははるか以前から存在していたのである。

 このスケープゴートの心理は理解しにくいものなので敷衍することにしよう。この社会においてはこのイデオロギーは絶対正しいという前提に立っている。それは資本主義社会よりも高い生産効率、高い生産力を持つことは当然であり、そうでないなどということは絶対にありえない。またそれに伴い階級は消滅していくはずである。そうならないということが起こったとしたら、それは敵の階級―資本主義勢力が内部敵として潜伏し、サボタージュ、妨害しているとしか考えられない。当然、党はその内部敵と階級闘争を行わなくてはならない。一方で農業集団化、超工業化を推進しながら、内部敵と階級闘争を行わないとなれば党は存在意義を失いかねない。ところが現実にはイデオロギーの敵はすでにほとんど駆逐、撲滅させられているのである。そうなれば内部敵を何がなんでも作り上げなければならないのである。そうでなければ、このイデオロギーが絶対に正しいという前提が崩れてしまう。そこで、何らかの理由で選ばれた幹部、党員がスケープゴートとして罪をかぶることになる。スケープゴートの役を演じることが、党に奉仕することになるのである。まったく身に覚えがなくても罪を自白し、処刑されることが党に対する忠誠を尽くしたことになる。党は現実の生産力がイデオロギーの示す通りにならないということの理由が、このような内部敵がいることによってだったのだ、と内外に説明することができるのである。つまりこれは、イデオロギーの敵が存在しない強固なイデオロギー空間の中だからこそ生じたのだといえるだろう。もちろん、これはイデオロギーの外部にいる人間にとってみれば、これ以上驚愕すべきことはない。単にイデオロギーが誤っているからこのような事態になっているにすぎないのである。

 しかし、実際この大テロルはスケープゴートの心理を利用しながら、本当の目的はスターリンの神経系を作り出すことにある。党の上層部、党員、赤軍将校、高級官僚、テクノクラート、あらゆる分野の専門家など中枢神経に相当する部分のテロルは特に激しいものになる。スターリンに忠実でないという僅かな疑義をかけられただけでたちまちテロルの対象になるのである。それは古参ボリシェヴィキや、革命以前からその職に就いていた専門家の大部分を含むことになった。このとき、革命後のボリシェヴィキの教育を受けて育った若い世代が、その後釜に座るようになった。彼らはスターリンを神のような存在とみなすことを自然なこととして育ったのである。革命から20年、この若い世代が育つだけの時間が必要だったのであり、そのとき大テロルが起こったということを―これが、なぜ革命から20年もたって起こったのかということを説明してくれるのである。

 大テロルの原因については、これまで多くの議論がなされてきた。しかし、どれだけ個別の理由を考えても本質には届かないように思われる。歴史事象のさまざまな出来事は当然、関連しているはずであるが、決定的な理由となると非常に難しいのである。例えば、「ナチスの台頭により戦争の危険が迫っていた。そのために内部敵、反ソ分子を粛清しておかなければ、国全体が危険なことになる。そのような可能性のあるものをそのままにしておくわけにはいかなかった」スターリンの側近たちは、あとになってもこのような大テロルの正当化を主張している。たしかに、赤軍の司令官とボリシェヴィキの反対派の幹部が結託して軍事クーデターを起こせば、スターリン指導部は破滅してしまうだろう。しかし、これはソ連という国に危険なのではなく、スターリンとその指導部にとって危険だということである。この大テロルの理由も、その規模のとてつもない大きさとそれが各共和国のあらゆる階層におよんでいるということを説明できるだろうか。スターリンの秘密指令は各共和国、各州ごとにきめ細かく、銃殺する人数、強制収容所送りにする人数を指定しているのである。(例えば、銃殺をA、強制収容所をB、としてアゼルバイジャン共和国―A 1,500、B 3,750・アルメニア共和国―A 500、B 1,000・西シベリア地方―A 5,000、B 12,000・アゾフ、黒海地方―A 5,000、B 8,000・レニングラード州―A 4,000、B 10,000・モスクワ州―A 5,000、B 30,000など)そして、これらの人数は後から何度も追加され、NKVDはそれを超過達成するようになっていった。これはまさに理由のない大量殺人である・・・一般的にはこのように考えられるだろう。

 この一般大衆にたいするテロルも、イデオロギー超有機体の形成によって統一的に説明することができるのである。ただし、一般大衆に対してはアポトーシスの概念は適用されにくい。これは微妙な問題であるが、テロルの対象を反ソ分子として選別する努力はなされている。実際にはこれはほとんど不可能なことであり、建前上そうであっても、ランダムに選ばれたのとそれほど変わりはないだろう。アポトーシスの概念は弱い意味で適用されるか、どうかというところである。一般大衆に対しては、イデオロギー超有機体の形成のためにテロルは恐怖による支配、密告による相互監視、社会の人間関係の横のつながりを断ち切り、頂点のひとつの脳から伸びる神経系の忠実な構成要素になるように強制することである。(ただし、アポトーシスの概念をこのような目的のためのものと拡大解釈すれば、一般大衆に対してもアポトーシスは適用されるだろう)そのために、社会全体にくまなくテロルは行使されなければならない。そして、テロルをいつ終わらせるかという判断も重要である。これが際限なく続けば本当に社会を破滅させてしまうのは明らかである。これはイデオロギー超有機体の形成に必要十分である、というレベルに達したときテロルは終息するのである。つまり、テロルから逃れた人々が、家族や知人、友人、会社や工場、学校、さまざまな組織のなかにテロルに巻き込まれた人がいて、そこから十分に教訓を会得するだろうレベルである。テロル全体の具体的な人数までコントロールすることは不可能であるが、このような大局的な意味においてテロルをコントロールすることは十分可能である。スターリンはこのすべてを総合的に実践したのである。(もちろん、ここでいうテロルの終息とは大テロルの終息という意味であり、規模が小さくなってもテロルは続き、また次の波が来るということを繰り返していく。また、強制収容所の囚人の人数も増え続けたのである)。

 つまり、大テロルの必然性とはイデオロギー超有機体の形成がそれを要請するからである。逆にいえば、それ以外の方法でイデオロギー超有機体の形成が達成されれば大テロルは起きないということになる。それ以外の方法というのは、現実には存在しなかったであろうことは間違いない。例えば、SFで見られるような人間の脳の中にマイクロチップを埋め込んで、すべてを監視し、遠隔操作できるようになれば大テロルは必要ないだろう。これまで検討されてきた大テロルのさまざまな理由は、そのほとんどがこのイデオロギー超有機体の形成の中に包含されるとみてよい。例えば、ナチスの台頭により戦争の危険が迫っている―これが大テロルの理由だとすれば、もしこのようなナチスの危険が存在しなければ、大テロルは起きなかったということになる。しかし、それは誤りである。ナチスの危険とはまったく別にイデオロギー超有機体の形成の要請は存在し続ける。もし、ナチスの危険がなければ大テロルの時期は多少変わったかもしれないが、やはり同じように勃発するだろう。そのときは、また別の理由、口実を探すのである。

 このテロの人間悲劇の部分は、それが家族にあたえた影響であった。敵の烙印を押された父母が消されただけでなく、本書の冒頭で述べたアレクサンドル・チヴェリの場合のように、弾圧された者の親戚までもがしばしば逮捕された。たとえばスターリンやモロトフやその他の政治局員は「人民の敵」の妻子の、あるいはいずれか一方の逮捕リストを、日常茶飯事であるかのように承認していた。いく世代もつづく血の復讐や家族の敵討ちが文化として根づいていたカフカースの出身者であるスターリンにとって、個人同様に血族グループを罰するという考えはおそらく自然だったのであろう。1937年の10月革命20周年記念晩餐会の席上、スターリンは長いあいさつのなかでそのことを口にしている。そのときのスターリンの言葉を、ゲオルギ・ディミートロフは日記につぎのように書き留めている。「したがって社会主義国家の団結を破壊しようとする者、社会主義国家からその民族の特定の一部分を分離しようと望む者はみな敵であり、ソ連の国家と人民の不倶戴天の敵である。そして、われわれはそのような敵を、古参ボリシェヴィクであろうとなかろうと、おかまいなしに絶滅する。その血族、その家族を絶滅する。その行動と思想によって、しかり、その思想によって、社会主義国家の団結を侵そうとするすべての者を絶滅する。すべての敵を一人残らず、かれらとその血族をも、絶滅せよ!」他方、家族の懲罰には、もっと実利的な政治的効用もあった。身内の者に懲罰がおよぶのではないかという恐怖は、裏切りを抑止する効果をもっていた。(アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編著 『ソ連極秘資料集 大粛清への道』  513頁)

 つまり、「社会主義国家の団結を破壊しようとする者」とはスターリンの神経系の役割を担わないすべての者である。それはその行動と思想によって、特にその思想によって、つまりそれは自分独自の考えを持つ者・・・それがいかなるものであれスターリンとは異なる考えを持つ者は絶滅させられるのである。それがどれほど共産主義の大義に合致していても問題ではないのである。そして、モロトフはスターリンの死後、あと少しスターリンが長生きしていたら自分は処刑されていただろう、と語ったという。それでもスターリンにたいする忠誠心はまったく変わりがない、というのである。これはアポトーシス心性の典型的な姿だといえるだろう。



戦争より恐ろしい共産党のテローソ連の大テロル


 前回のブログでナチスのホロコーストと比較する意味で1937年、38年のソ連の大テロルを取り上げたが、ここでは以前論文に発表した内容を一部転載することで詳しく論じていきたい。共産党のテロはナチスのホロコーストと違い非常に期間が長く、規模も巨大であり、実に複雑で多様なのである。ロシア革命初期のレーニン時代のテロとスターリンが権力を握った時代のテロとはかなり異なっている。ソ連以外の共産党のテロもそれぞれ独自の形態を持っている。それをすべて説明していると膨大な叙述が必要になって来るので、ここでは代表的なスターリン時代の大テロルに絞って説明してみたい。

大テロルの様相と問題点

 まず、大テロルの事例を取り上げることにしたい。これは大テロルによって、人生を断ち切られた人の簡略な物語であるが、それがどのような状況で、どのような経過をたどって起こったのかを知ることは有用である。そのことは本人だけでなく、家族、友人、知人にどのような影響を及ぼすかということも重要である。これはこの時期の70万人といわれる犠牲者のたった1人の事例である。そしてこのようなことは、この時期以前も、以後も規模こそ小さくなったが決してなくなることはなかったのである。そしてこのテロルは、レーニン時代のテロルとその形態、性質が異なったものになっていることにも注目したい。レーニン時代のテロルとスターリン時代のテロルはどのような本質的な異同があるのだろうか。それは、レーニン時代のテロルがイデオロギーの敵、すなわちイデオロギーの外部に向かって放たれたものであるのに対し、スターリン時代のテロルはそのようなはっきりとしたイデオロギーの敵に対してではなく、イデオロギー体制への内部に向かって放たれたテロルである、ということである。これを「イデオロギー外部破壊」と「イデオロギー内部破壊」として区別することを示してみた。この差がまたレーニンよりもスターリンを非難する主要な要因となっている。つまり、「ブルジョワジーを殺るのは良いが、身内を殺るのはけしからん」というわけである。

 人民の敵アレクサンドル・ユーリエヴィチ・チヴェリは、1937年3月初旬のある日、ソ連秘密警察の銃殺班によって処刑された。世界をゆるがすこともなかった一日だった。■アメリカのジャーナリスト、ジョン・リードの一〇月革命見聞記「世界をゆるがした10日間」をもじった表現。

 一介のジャーナリスト、編集者、中堅どころの幹部にすぎないチヴェリは、どうみても当時の重要公文書に特記されるような人物ではなかったし、スターリン権力の中枢にいたわけでもない。しかし、そうだからこそ、いうなればごくありふれたソヴィエト人の典型として、この人の身の上は語るにあたいする。チヴェリは、なんらかの理由で、あるいは理由などなしに、1937年と1938年に処刑された70万人近くの市民のなかの一人となった。これらの人はすべて、「反革命」とおぼしきさまざまな分子を排除して共産党とソヴィエト連邦を浄化するという名目で、多くは裁判その他の法的手続きをふまずに、処刑された。チヴェリの経歴は、スターリン時代のテロの縮図でもある。

 チヴェリは、世紀があらたまる直前にバクーで生まれた。そこからほど遠からぬところで、若き日のスターリンが非合法革命家として活動しはじめていたころである。両親はさる外資系会社につとめるホワイトカラーだった。辺境のユダヤ人家庭に生まれたため、一生うだつがあがりそうもないと思われたが、しかしアレクサンドルはあたまのよい子で、幼いころから英語、ドイツ語、フランス語を勉強し、使いこなせるようになっていた。

 政治にも関心をもち、16歳でバクーのシオニスト学生組織に加盟した。ロシア帝国の非ロシア地域で政治に積極的にかかわるユダヤ人など、支配体制側はほとんど相手にしてくれなかった。そういう不利な立場にありながら、18歳で高校を卒業、将来の進路を考えていた。卒業の年がたまたまロシア革命の年、1917年だったことが、運命のわかれ目になった。

 この年の劇的なもろもろのできごとのなかで、どんな役割を演じたか、さだかではないが、1918年には、チヴェリはピャチゴールスク・ソヴィエトの軍事部に、つづいてボリシェヴィキ新政府のモスクワ宣伝局に勤務していた。同年末、ソヴィエト政府の通信社ROSTA〔ロシア電報通信社、タス通信社の前身〕の編集局にはいり、内戦期(1918―21年)にはROSTAおよびソヴィエトのいくつかの新聞の通信員としてモスクワ、ヴォルガ地域、タシケントで活躍した。編集者としての実力と語学力のおかげで、そういう才能のある人をのどから手がでるほどほしがっていた新政権にとって、貴重な人材となったのである。

 内戦終了後、アレクサンドル・チヴェリは編集者、執筆者としてモスクワの共産主義インタナショナル(コミンテルン)で働き、そこでエヴァ・リプマンと出会い、結婚した。1925年レーニングラードに移り、「レニングラーツカヤ・プラウダ』紙外報部員となったが、1926年モスクワにもどり、共産党中央委員会書記局と中央委文化・宣伝部で編集の仕事にたずさわることになった。共産党の出版物のために働いてきたのに、チヴェリは党員ではなかった。しかし、中央委機関での新しい仕事につくために、党籍が必要となった。編集者としての経験と語学力を高く買われていたので、中央委の特別指令で、ふつうは党員候補期間が必要なのに、それをとびこして1926年12月にいきなり正規の党員として入党をみとめられた。その後の10年間、チヴェリはモスクワの党本部でずっと働きつづけ、中央委国際情報局の局長補佐のポストを占めるにいたった。

 表面を見るかぎり、チヴェリの履歴には非の打ちどころがないように見えた。電報のあて先をまちがえたとか、党員証を紛失したとかいう些細なミスで、三度譴責をうけたことはあったが、履歴にこの種の小さな傷をもつのは、党員としてぺつにめずらしいことではなかった。しかし、舞台裏では党の最高指導者たちが、下級職員の履歴をいつになく綿密に調べていた。政治上の異論を申し立てた人びと、あるいは政争に敗れた人びととの仕事のうえでの関係が調査され、悪いほうに解釈されることが、ますます多くなった。チヴェリの過去には、この種のうたがわしい関係が二度あった。1925年、レーニングラードにいたころ、左翼反対派グリゴーリイ・ジノヴィエフの追随者たちと一緒に働いたことがあった。悪い時期に悪い場所にいたものだ。というのも、当時ジノヴィエフはレーニングラードの党のボスで、当然ながらチヴェリの働いていた新聞も、ジノヴィエフ支持者たちの監督下にあったからだ。さらに、1936年まで国際情報局でチヴェリの直接の上司だった人物は、かつてのトロツキスト、1920年代にスターリンを痛烈に風刺し批判したことで知られるカール・ラーデクだった。

 ジノヴィエフその他の旧左派の1936年8月の見せしめ裁判の余波で、疑心暗鬼は頂点にたっした。異端者たちには死刑が宣告され、裁判のあおりをうけて、ラーデクのように左派に加担した人びとは、きびしい詮議をうけるようになった。8月末にラーデクは逮捕され、同時にチヴェリも秘密警察(NKVD)に連行された。妻と幼い息子は、これ以後二度とかれに会うことがなかった。

 チヴェリはその後六カ月にわたって獄中で尋問をうけた。取調官が拷問をくわえたかどうかはわからないが、ほかの多数の人が拷問を受けた証拠はじゅうぶんにある。高官でさえ勾留中になぐる蹴るの拷問をうけた。のちのモロトフの言をかりるなら「したたかにやられた」のである。10年後に警察の一高官が、スターリンあての手紙のなかで取り調べの実情を述べている。まず、自白すればその見返りに食事、文通などの面で待遇を改善してやるとの条件が、被疑者に提示される。うまくいかなければ、つぎに被疑者の良心にうったえ、家族を案じる心情にうったえる。つぎの段階では、運動もさせず、ベッドもなく、タバコも吸えず、眠ることもゆるされない独房に最大20日間もとじこめ、食料は1日300グラムのパンだけ、温かい食事は3日に一度だけとなる。ついには、1939年1月10日付けの中央委決定によって、「肉体的圧力」の行使が認められた。こういった処遇は、もっと後の、多少手こころがくわえられるようになった時期の話だが、チヴェリが拘禁されていた1930年代の実態が、これよりなまやさしいものだったとは、とうてい思えない。

 1936年、スターリン指導部の妄想は、さらに肥大した。左右両翼のかつての党内異端派が、逮捕の大波に巻きこまれた。外交官グリゴーリイ・ソコーリニコフ、重工業人民委員部次官ゲオールギイ・ピャタコーフをふくめて、過去に反対派に属したことのある多くの高名なボリシェヴィキが投獄された。全員が妨害工作、スパイその他さまざまな反逆行為など、奇想天外な罪名で告発された。ボリシェヴイキ・エリートは自滅の道をすすんでいた。

 チヴェリが働いていた中央委員会の奥の院の内部でも、疑心暗鬼は正気のさたとは思えぬほどにふくれあがった。そういった妄想の波のひとつのなかで、党中央機関の勤務員、トーロポヴァ、ルキーンスカヤという名の二人の若い女性が、懇親パーティーでチヴェリと一緒にいるのを見かけたことを、だれかが思い出した。党統制委員会議長の要職を占める高官M・F・シキリャートフは、さっそくNKVD〔内務人民委員部〕にメモを送って、この二女性についてチヴェリに尋問するよう要求し、「われわれはチヴェリのダンスの相手となった全員を確認することができないでいる」と不満を表明した。

 1937年3月7日付けでNKVDは、アレクサンドル・チヴェリは二女性に罪を着せるような供述はなにもおこなわなかったむね回答した。しかし最高裁判所軍事合議部は、ボリシェヴィキ指導者たちの暗殺をねらうテロリストの意図を知っていたのみならず、みずから「エジョフ[NKVD長官N・I・エジョフ]にたいするテロ行為を準備した」かどでチヴェリに有罪を宣告した。おそらくチヴェリは即日処刑されたのだろう。NKVDの残虐な拷問をうけた他の多くの人びととはちがって、かれはついに自白しなかった。

 だが、チヴェリの物語は、これで終わりではない。個人をのみこんだテロは、その家族をも破壊した。チヴェリ逮捕の直後、妻エヴァは「政治的理由で」仕事をクビになり、これが履歴の傷となって、どこにも就職できなくなった。まもなくモスクワの公共集合住宅のフラットからも追い出され、「路頭にまよう」はめとなって、病弱な幼い息子をつれて実家の母親の超満員のフラットにころがりこんだ。しかし1937年4月、エヴァ・チヴェリとその息子はモスクワから追放され、遠いシベリアのオムスク州に流刑となった。母親もフラットを追い立てられ、娘や孫とともに流刑にされた。おそらく二人をかばったためだろう。

 1937年10月、こんどはエヴァ・チヴェリがオムスクで逮捕された。トボーリスク刑務所に八カ月収監されたのち、NKVD特審部(この機関はなんら犯罪をおかしていない人びとにまで判決を下す権限をもっていた)によって、「祖国にたいする反逆者の家族」であるという理由で八年間の収容所入りの宣告をうけた。テロによる狂暴な人間関係破壊は、これにとどまらなかった。エヴァ逮捕の直後、NKVD係官がエヴァの母親の住居にやってきて、チヴェリの九歳の息子を孤児収容施設に連行した。やっと母に再会できたとき、息子は20歳代のなかばにたっしていた。

 収容所で8年の刑期をつとめあげたのち、他の多くの人と同様に、エヴァはさらに8年のシベリア流刑の追加宣告をうけた。スターリンが死んだ1953年になって、やっと釈放され、モスクワにもどった。

 エヴァはすぐさま、亡夫の名誉回復をもとめる運動をはじめた。1930年代のテロによって何十年も苦しみつづけたほかの何百万の人びとと同様に、25歳の息子もまた「人民の敵の子」という公式のレッテルをあいかわらず貼りつけられていた。1955年初頭からエヴァは「わが子の父親にたいするこの誤った判決の取り消し」と、アレクサンドル・チヴェリの死後名誉回復をもとめて、各方面に手紙を出しはじめた。再審は、はかばかしくすすまなかった。そこでエヴァは、犠牲者の未亡人、肉親、元囚人たちの団体にくわわり、公正な裁定をもとめて役所をめぐり歩いた。1957年5月23日、チヴェリの処刑の20年後に、そしてエヴァが多くの手紙や嘆願書を書きまくったのちに、ようやくチヴェリの判決と党除名処分は取り消された。最高裁の決定は、いつも多くのことがらを隠蔽してきたあの簡潔な言語で、1937年の判決は「矛盾した信用できない資料にもとついたものであった」と認定しただけだった。(アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編著 『ソ連極秘資料集 大粛清への道』 3~7頁)

 この大テロルの表面上の様相は、レーニン時代のテロルといかに大きく違うものであるか、この事例だけでもよく理解できる。内戦と区別することも難しかったレーニン時代は、逮捕、処刑は公然たるものであったのに対し、スターリン時代のテロルは通常、逮捕は真夜中の秘密警察による連行であり、外部から見えないところで尋問、拷問が行われ、処刑は密かに執行され、遺体は関係者以外誰にも知られないように処理されている。このことで、残ったものたちにあたえる恐怖は想像を絶するものがあるだろう。いつ自分の番になるか分らないのである。密告が奨励、あるいは強制され、人々は自分以外の誰も信じられないような、ばらばらな原子へと分解されていく。体制に絶対服従でなければならないが、たとえそうしたとしても命が保証されるわけではない。どれだけ体制のイデオロギーに従順であり、支持していたとしても、どれだけ体制に貢献したとしてもそれが何の保証にもならないのである。つまり、真に安全が保障されているのはスターリンただ1人である。しかし、スターリンの主観からすれば、いつ暗殺されるか分らないという強迫観念に付きまとわれていたのである。現実にその危険がどれだけあったかは別問題であるが・・・

 大テロルに関わる謎は、あまりに多く、多岐にわたるがそのいくつかを列挙してみよう。まず、その巨大な規模であり、なぜこれほどまで人的損失が生じたのかということである。それも、共産党の最上層部である政治局員から中央委員、それ以外のすべての階層の共産党員、赤軍の司令官、将校、下士官クラスに至るまで、社会全体で重要な位置を占めるさまざまな職業の人々、学者、知識人、テクノクラート、さまざまな専門職からまったく最下層の労働者、農民に至るまで、さらにテロルを執行している秘密警察の幹部、職員までテロルの標的になっている。それは明らかな政治的敵・・・そのほとんどはすでに弾圧され、撲滅され、国外に追放されている・・・だけでなく、そのような履歴を持った人、何らかの関わりを持った人々まで拡大されていく。社会全体にあたえるダメージは巨大なものになった。それは体制にとっても非常な損失であり、ダメージになったはずである。それにもかかわらず、とても敵とは思えない、その潜在的可能性すらほとんど考えられないような人々さえどうしてテロルの標的になったのだろうか。スターリンとその側近たちは本当にそのように考えていたのだろうか。つまり、いまだ階級の敵は至るところに存在していると信じていたのだろうか。それとも、それは口実であり恐怖による支配を完全なものとするためだったのだろうか。それとも、この両者の中間あたりが真実なのだろうか。

 そして、なぜこれほど多くの人々が、まったく身に覚えのない陰謀を告白して、処刑されていったのだろうか。厳しい尋問、拷問、親族に対する弾圧の脅迫、告白すれば罪を軽くするという誘いなどがあったとしても、志操堅固な革命家であったものたちまで到底考えられないような罪状を認めているのである。そして、スターリンはなぜこれほど奇想天外な罪状をでっち上げることに、その意味を感じていたのだろうか。そして、そのことはソ連社会だけでなく、西欧をはじめとする諸外国において、それをまともに受け取る人々が多くいたということも、今では不思議なことである。これは当然、それらの相互関係によって成り立っているということがいえるだろう。フランソワ・フュレの『幻想の過去』で述べられている共産主義幻想は、現在とはまったく違うものであることは想像がつく。そして、かりにも大国の政治上層部で正式に発表されていることが、まったくの嘘で固められているとは信じられない・・・このような心理も働いているだろう。

 このような事態に対して、表立った反抗がほとんどなかったということも不思議なことである。助命の嘆願書が大量にスターリンのもとに送られたけれども、それ以上の実力行使のような反抗はまったくといっていいほどなかったのである。特に、赤軍の上層部は事態の危険性を認識していたにもかかわらず、その気配もなく、何ら行動も起こさなかった。ソ連崩壊後の情報公開によっても、スターリンに対する具体的な暗殺計画すら一件も発見されていない。これも驚愕すべきことである。何しろ為政者に対する暗殺はロシアの十八番であり、長い伝統がある。それなのにロシア史上もっとも暴政を働いたスターリンに対する暗殺は知られていないのである。これは30件以上の暗殺未遂があったヒトラーとは好対照である。スターリンに対する批判はあったけれども、それが暗殺という最終手段には至らなかったのである。これはおそらく、イデオロギー上の外部敵がほとんど撲滅されていた、ということが大きいだろう。これは大テロル以前からあったことであるが、批判はイデオロギー内部からのものであり、トロツキーにしろ、リュウチンにしろ、マルクス、エンゲルス、レーニン、そして党には何ら疑義を指し挟んではいない。批判の矛先はあくまでスターリンなのである。また、このテロル作戦は隠密のうちに遂行されていて、スターリンがその首謀者であるということははっきり分らなかった。盛大なスターリン崇拝が行われ、大テロルの時期ですら、社会の雰囲気はそれほど暗くなかったということである。共産党員の中には大テロルを支持するものも大勢いた。それは強制によってだけでなく、心からそう思っていたのである。

 スターリンにとって、1939年の第18回党大会は、34年の第17回党大会(「勝利者の大会」)以上にその名にふさわしい勝利者―または生き残り―の大会となった。代議員の点呼を聞けば、彼がこれまでの5年間に、まったく新しい党をいかにうまくつくりあげたかがよくわかった。34年の大会の代議員1966人のうち1108人(フルシチョフによる数字)が反革命的な犯罪で逮捕されていた。幸運にも生き残った者のうち、39年に代議員としてまた姿を見せた者はわずか59人にすぎなかった。中央委員会の委員の再編成も同じように劇的だった。34年に選ばれた139人の正規の委員と委員候補のうち115人が39年にはもはや姿を現わさなかった。フルシチョフは彼らのうちの98人が銃殺されたと報じた。しかし、メドベージェフは本当の数が110人だったと述べている。

 ベリヤはNKVDの幹部層を、前任者のエジョフに劣らず、きれいさっぱりと掃除した。フリノフスキーとザコフスキーのように、ヤゴーダの時代から生き残って、ブハーリンの裁判の準備をしたごく少数の者は、同僚たちのあとを追って処刑された。エジョフの世代も同様だった。全体として、NKVDのメンバーの2万3000人以上が1930年代末までに抹殺されたと推定されている。39年3月までには、ベリヤの部下がすべてを取り仕切るようになっていた。その典型は、彼がモスクワへ連れてきたグルジア人の部下たちだった。調査委員会による報告のあと、約5万人にたいする告発が取り下げられた。政策に変更が生じたというよりも、その適用が緩和されたことを示すジェスチュアである。エジョフが緊急の措置として行なった粛清は、ベリヤのもとで永久的な支配の手段として制度化されたのである。

 エジョフがスケープゴートに名指されたので、スターリンは進んで誤りがあったことを認める気になった。そして大会の報告のなかで、代議員たちに語った。「粛清が重大な誤りなしに行なわれたとは言えない。不幸にも、予期していた以上の誤りがあった」。しかし、彼は代議員たちを安心させた。「疑いもなく、われわれはこれ以上、大量粛清というやりかたに戻る必要はないだろう。ともあれ、1933~36年の粛清は避けることができなかったし、その結果は総じて有益であった」。

 疑いもなく不安に駆られて耳をそばだてていた代議員たちは、スターリンの言及した党からの追放が中央委員会により憲法にもとついて公認された1933~36年の時期だけのものだった事実を聞き漏らさなかったはずである。だが、1937年から38年に行なわれた粛清については、何のコメントもなしに無視された。追放され、あるいは処刑された者の数が10倍にもなり、ごく少数を除いて、裁判にかけられたすべての者にたいする判決のよりどころが、スターリンと内密に行動した一人か二人の政治局員の判断だった時期のことである。だが、報告の最後になってやっと、若い世代の急速な昇進に言及しながら、スターリンは独特のブラックユーモアで味つけしてこうつけ加えた。「しかし・・・・・いつの世にも古参のカードルは必要な数よりも少ないものだ。彼らのような階級は、自然の法則が働いてすでに間引かれはじめている」(アラン・ブロック 『ヒトラーとスターリン 第2巻』 273、274頁 )

 かつての左翼反対派も右翼反対派もそのほとんどが絶滅させられた。生き残った古参ボリシェヴィキはほとんどがスターリンの側近中の側近、忠誠を尽くしてきた子分たちだった。1人国外に亡命して、スターリンと体制にペンによる猛烈な攻撃を続けていたトロツキーは1940年8月、亡命先のメキシコで、ついに身辺に潜入していた工作員によって暗殺された。主だった体制の反対者はこの地上から一掃されたのである。

 まさに1930年代は、ソ連の各時期を通じて最大の弾圧、テロルの時代となった。農業集団化は農民の抵抗を押さえ込むために、大量餓死が生ずるのを知りつつ穀物を取上げ、移住を制限した。クラークはシベリアの奥地へと追放され大勢が死んだ。強制収容所に大量の囚人が送られ、過酷な強制労働によって多くの人命が失われた。民族単位の強制移住も大規模に行われた。移住先は到底、生活していけないような場所がほとんどだったのである。直接の逮捕、銃殺はそのなかの一部分なのである。 

・・・それは戦争中でもないし、内戦や動乱の時期でもない。普通の生活が続く社会の中で、そこの住民が1人、また1人といなくなっていく。そしてその人は二度と戻ってくることがない。それがどういう意味を持つのか、彼らはどうなったのか隣人と話すことさえできないのである。その隣人は密告するかもしれない。真夜中にアパートの階段を上ってくる足音を聞いただけで心臓が縮みあがる恐怖なのである。そのような生活が延々と続いてゆく・・・ 1941年にナチスドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が始まった。その時の大テロルの渦中にいた人物が話したことが印象に残っている。 「戦争が始まって私は心の底からほっとした。この戦争で私は死ぬだろう。だがしかし、少なくともその時までは、夜安心してゆっくりと眠ることができる」

(次回に続く)

戦争より恐ろしい共産党のテローマスメディアの情報統制


 最近、中国共産党によるウイグル、チベット弾圧が取り沙汰されるようになった。このような弾圧はもう遥か以前から行われていたのであるが、最近やっと世界的に注目されるようになってきたようだ。 (ただし、日本はその中に入っていないようである。マスメディアが取り上げないことが大きいだろう)習近平の国賓来日が批判されているが、中国共産党からすればどうして今更、ということになるだろう。ウイグル、チベット(香港は一応別であるが)がその理由なら、そもそも1,970年代に国交正常化をしたこと自体が批判されるべきである。それ以外のすべての国交も経済交流も批判されるべきである。以前は批判されなくて現在批判されるようになったのは、世界的な潮流-特にアメリカの変化によるものが大きい。つまり、アメリカの都合によるところが大きいのだが、アメリカと中国どちらにつくかと考えれば当然、答えは明らかである。同盟関係だけでなく、文明的文化的価値観も日本は中華世界ではなく、むしろ欧米に近いのである。ところが日本国内に中国につくという勢力が相当数いる事は明らかであり、それがまさに日本に危機的状況を生み出している。

 中国側につくという勢力は反日左翼が中心となるわけであるが、それ以外にも経済的な恩恵を受ける者もいるだろう。反日左翼とはほとんどが共産主義者、共産党である。このように言ってもいちども反論を受けたことがないので、認めているということなのだろう。もっとも反日左翼は「私は反日左翼です」とは決して名乗らないし、今では共産主義に関しても仲間内でしか話さなくなったようである。日本共産党にしても、共産主義について積極的に論陣を張るような事はない。もう、ただひたすら政権与党の批判というより、妨害をしているだけである。マスメディアも当然ほとんどが反日勢力によって占められていて、その報道はもはや外患誘致罪の領域ではないかと思われてくる。

 そのマスメディアについてずっと以前から気になっていることがある。それは頻繁になされるナチスドイツ-ヒトラーの犯した罪「ユダヤ人に対するホロコースト」についてである。このような問題を取り上げるとき当然、普通の人間はこの大量殺人ということそのものに対する批判、非難であろうと考えるのである。ところが、どうもそうではないことがわかってきた。このナチスドイツのユダヤ人ホロコーストに対置されるべき、共産党のホロコーストはほとんど取り上げられないのである。

 (用語の使い方についてだがユダヤ人に対する大量虐殺(ジェノサイド)をホロコーストと呼んでいて、共産党の場合は普通は言われない。ここでは共産党の大量虐殺を単にテロあるいはテロルと呼ぶことにする)

 今まで新聞、テレビその他出版物を通じてのマスメディアの取り上げられ方はナチスドイツのユダヤ人に対するホロコーストがほとんどであり、共産党が行ってきた巨大なテロについてはほとんどなされていないようにみえる。

 このような比較はどうだろうか-ナチスが第二次世界大戦中に行ったユダヤ人に対する大量虐殺、ホロコーストについて知っていますか?と質問して知っていると答えた人に、それでは1937年、38年の間行われたソ連の大量虐殺、大テロルについて知っていますか?と質問して知っていると答える人は何%ぐらいいるだろうか。ソ連共産党が行ってきた大量虐殺、大量弾圧のこれは一部分に過ぎないが、非常に有名であり重要な意味を持つテロなのである。ソ連共産党や中国共産党が行ってきた大量虐殺、大量弾圧のことを一体どれだけの人が知っているだろうか。ナチスドイツ-ヒトラーのユダヤ人に対するホロコーストは知っているが共産党のテロはあまり知らない、ほとんど知らないというのはまさにマスメディアの取り上げられ方が極度に偏向しているからだと考えている。自分から特別な興味があって調べたり、勉強したりしない限り一般の人はマスメディアの報道やドキュメンタリー番組などに影響されてしまうのである。

 両者のテロの規模をその期間、犠牲者の人数などで比較すれば一目瞭然である。ナチスのユダヤ人弾圧、ホロコーストはナチスが政権を取った1933年から敗戦の年1945年までのおよそ12年間である。犠牲者の人数は約600万人といわれているが、これには諸説あり、かなり水増しされた数字ではないかというものもいる。 それでも大変な数であることには変わりはないだろう。

 それに比べて共産党のテロはソ連共産党、すなわちボリシェヴィキが クーデターによって権力を握った1917年から敵対者とみなしたものに対するテロが開始され、共産党の政策に従わない者、逆らうものに対する弾圧が継続されていった。それはさまざまな形態をとっていたが、結局それはソ連が崩壊するまで続いたといえる。さらにソ連共産党以外の中国共産党や北朝鮮、カンボジアにおけるクメールルージュのジェノサイドなど共産党、社会主義政党のテロ、弾圧は現在のウイグル、チベットに至るまで103年間続いている。それは現在進行形なのである。犠牲者の総数はなんと約1億人と見積られているが、これはナチスのホロコーストの犠牲者の10倍以上である。これは強制収容所の過酷な生活における死や、人為的に引き起こされた飢餓による餓死なども含まれる。すなわち共産党-共産主義に奉じる政党が権力を握った地域におけるテロ、弾圧はその期間、犠牲者の規模においてナチスの10倍程度の巨大なものなのである。

 そうであるならばマスメディアがこのような問題を扱う場合、ナチスのホロコーストを取りあげて、共産党のテロ、弾圧を取り上げないなどということは全く考えられないことである。私が考えるにもし、両者の取り上げられ方が同程度であったとしても偏向している、といえるだろう。当然、その規模の巨大さ、そして何よりも現在進行形であり、今の日本に切実に関係している共産党のテロをより多く取り上げなければならないはずである。

 このようにマスメディアは共産党のテロに対して情報統制をしているといえるわけだが、マスメディアに限らず反日左翼勢力-学会や教育界、法曹界なども全く同様である。情報統制をしているといっても、もちろんそれを禁止している訳ではない。それをすれば明確な憲法違反になるだろう。それは徹底的に報道しない自由、スルーすることによって統制しているといえる。マスメディアや学会はそのような共産党のテロを取り上げるような識者や、論者を報道番組などから排除したり、 学会から追放したりするのである。大学の教授会などが新しく講師を招聘するような場合、このような傾向の人間を排除するのである。

 今日のインターネットの発達により、このような情報統制もかなり崩れてきたといえるだろう。インターネットによって、検索すればいくらでも共産党のテロに対する情報を知ることができる。ここではこの共産党のテロを掘り下げて考察していくことにしたい。それが日本の戦後レジームの中でどのように位置づけられるか、意味を持つかということを考えていきたい。 (次回に続く)

レコード大賞受賞曲「パプリカ」と北朝鮮の影響力工作



 去年のレコード大賞受賞曲は「パプリカ」という曲だったそうで、私はこの手の番組はほとんど見なくなったので全く知らなかった。昔は年末と言うとレコード大賞と紅白歌合戦が定番だったが、今では全く見なくなってしまっている。この曲はNHK教育テレビの「みんなのうた」で流されていたもので、子供を中心に大ヒットしたのだという。これも全く知らなかった。YouTube におけるミュージックビデオの再生回数はFoorin 1.6億回以上、米津玄師バージョンで7000万回以上という桁外れの数字を叩き出している。ところでこの曲に関して面白いブログ記事に出会った。
 
 それはこの「パプリカは北朝鮮のプロパガンダ」である。
 
 面白い題材になると思ったので、これをテーマにして北朝鮮の影響力工作、その他様々な工作活動について考えてみようと思った。最近は韓国や中国を中心に考えていて、北朝鮮にはあまり目を向けていなかったように感じられたので色々調べてみることにしたのである。
 
 私は今まで長い間、マルクス主義、共産主義からロシア革命、スターリン体制形成について研究してきた。このような政治経済体制は最終的には左翼全体主義に至る、と言う結論に達したのである。そしてその左翼全体主義のある意味、完成形であり現在でもその体制を維持している北朝鮮を考える事は有益で面白いことである。
 
 影響力工作とは、佐々木太郎 著「革命のインテリジェンス 」によると次のようなものである。 「非公然の手段によって、標的国の世論や政治を自国の有利な方向に誘導すること」である。非公然という事は秘密裏のうちに、無自覚のうちにということも含まれるだろう。この場合、自国とは北朝鮮であり、標的国とは日本のことである。私はこの「パプリカ」という曲が北朝鮮のプロパガンダと断定できる、という主張をするつもりはない。公的な場では、このようなものは偶然の一致に過ぎないと片付けられてしまうだろう。ここで問題にしたい事は、この曲に北朝鮮の影響力工作の可能性があることを考慮しなければならない、ということである。
 
 それではその影響力工作とはどのようなものなのだろうか。この歌の曲や歌詞、そしてミュージックビデオにおけるダンスやアニメーションといったものを詳しく分析しなければならないだろう。しかし、すぐにわかるようにここに北朝鮮を直接指示するものは何もないといってよい。このブログの執筆者であるNK氏は北朝鮮を研究し、そしてこの曲やミュージックビデオを比較することによって初めてその類似性を発見することができたが、一般的にはこのような事は行なわれないのである。ほとんどの人はこの曲に北朝鮮の要素が紛れ込んでいるとは気づかない。そうだとすれば、もしこれが何も起こらず終わってしまえば特に問題は生じないと言える。
 
 もっとも、この曲に誰にでも北朝鮮を指示しているとわかるものがあれば大問題になるだろう。いくらなんでもそれはありえないことである。その要素をまぎれ込ませるためには、それを指摘された時に「そのようなものは偶然の一致に過ぎないよ」と反論できるものでなければならないのである。しかし、そのような北朝鮮の要素をまぎれ込ませる事に一体どのような意味があるのだろうか。ここではその方法、意図、狙い、目的を考察してみたい。

 ひとつには愉快犯的な一面があるだろう。つまり、日本人には分からないように北朝鮮の要素をまぎれ込ませて、その曲がヒットしてレコード大賞まで取る。しかし、それと知らずして北朝鮮の利益になるような意味が込められている曲を支持して広めているのである。それを見て楽しんでいる、というようなことである。同じような事はソフトバンクの犬のCMにもいえるかもしれない。 ー(ソフトバンク、 CM 、意味)で検索すると色々な記事が出てくる。もう一つは何らかのサブミリナルな効果を狙っているのかもしれない。しかし、この辺は非常に抽象的でありよくわからないところである。

 より本質的で重要な事はこれから問題にされることである。インターネットの登場と様々な書籍により、中国、韓国、北朝鮮などの日本への浸透工作は非常に深いところまで進んでいることが明らかになっている。特にマスメディアはそれが著しい分野である。 NHKやTBSは特に進んでいると考えられている。そして北朝鮮の様々な組織、団体が日本国内で活発に活動しているのである。

一例としてこちらのサイト-沖縄が狙われている「チュチェ思想」を拡散している著名人・団体名リスト-

 この中に日本教職員チュチェ思想研究会全国連絡協議会というものが紹介されている。これは日教組の教職員を中心に全国に数百名構成員がいるということである。もし、この「パプリカ」という曲をプロデュースしたNHKの職員が北朝鮮系だったと仮定すれば、当然組織的な横のつながりを持っている。つまり、この曲に込められた隠されたメッセージが日本で活動する北朝鮮工作員全体に情報共有されることになるだろう。日本人にはなかなか想像しにくいことなので、ピンと来ないかもしれないが、これらの横のつながりは非常に密に行われているようである。

 この曲が子供たちの間で大ヒットしたということは、この曲に対し親近感を持ち、良いイメージを持っているということである。もし、小学校で北朝鮮工作員というべき教職員がこの曲をきっかけとして北朝鮮、チュチェ思想を広めるような洗脳をすることは充分考えられることである。当然、児童は北朝鮮やチュチェ思想に対する免疫力を全く持っていないのだから、それは比較的容易になされるだろう。( これは学校だけでなく様々なシチュエーション、ケースが考えられるだろう)それですぐ何かが起こるという訳ではない。問題なのはその子供たちが成長して大人になり、社会人になっていく-その時に北朝鮮は素晴らしい国だというような洗脳がなされていたらどうなるだろうか。そのように5年後、 10年後、 20年後といった非常に長期にわたる影響力工作を狙っているのである。

 もちろん、以上のことは一つの可能性に過ぎないが、北朝鮮の工作活動が活発に行われているというのは完全な事実であり、このようなことは考慮しなければならない可能性ではないだろうか。

2020年への想い


 新年あけましておめでとうございます。
 今年もさらに、マスメディア、共産主義、特亜勢力といった反日勢力に対する批判を強めていきたいと思います。
 それとともに戦後レジームを相対化するために、本来の日本とはどのようなものであったのか、自分なりに考えていこうと思います。
 大東亜戦争のような大きな戦争に負けたという結果は、かくも 長期にわたる影響を及ぼしていると痛感せざるを得ない、とこのように考えてきたわけですが、影響を及ぼすなどといった次元の問題ではないことが、ますます明らかになってきました。
 日本人がこの日本列島に住み始めてから2万年以上は経っているでしょう。その中で巨大な自然災害といった大きな危機があったと思いますが、現在の危機は全く違った国際関係による文明、文化としての危機だといえるでしょう。そもそも、それを自覚させないことが戦後レジームだといえるでしょう。
 例えば共産主義、共産党がこれほど残存している先進国は日本しかありません。これがどれほど異常なことであるか、ほとんどの日本人は認識できないのです。ブログでは共産主義理解のわかりやすいあり方を模索したいと思います。
 本年もよろしくお願いします。

真珠湾攻撃から78年-戦後レジームへの目覚め (前回の続き)


 安倍政権誕生の頃からインターネットや書籍における戦後レジームに関する情報は飛躍的に増大していった。それ以前、私は共産主義の問題に集中していた時期があり、日本の戦後レジームに関しては少し遅れて関心が向くようになった。そこでは今まで言われていたことと正反対の事が多く書かれてあったのである。といっても、それで直ちに根本的な見方が変わるわけではない。やはり、それなりの情報量の多さと時間が必要だった。しかし、ある時それが根本的に変わる決定的瞬間が訪れたのである。

 それはルーズベルトと同世代の共和党議員だったハミルトン・フィッシュが書いた「ルーズベルトの開戦責任」を読んだときである。それまで私は自分の知識内で真珠湾攻撃は避けられないものであったのか。アメリカとの戦争は避けられないものであったのか、ということを考えたことがある。それは具体的にはハル・ノートを受諾できるかどうか、という問題だろう。これは非常に難しいことのように思えたが、戦争は何としても避けたいところである。また、アメリカの石油等の全面禁輸、アメリカの日本資産凍結などは戦争行為に等しい、という事はわかるのだが、現実に武力によって先制攻撃したのは日本であるというのは事実である。

 ハル・ノートにおける日本軍および警察のインドシナ、中国(満州を含む)からの即時全面撤退の要求と言うのは絶対にのめるものではない。そのようなことをしたら残された日本人を見殺しにすることと同じである。現実的には時間をかけた全員の撤退ということになるだろう。このような事をアメリカ側に打診するつもりだったようである。しかし、アメリカ側には (といってもそれはルーズベルト政権の閣僚の中だけの話だったが)さらなる第二ハル・ノートが準備されていたのである。つまり、受諾することが全く不可能に見える最初のハル・ノートをさらに上回る要求がそこに書かれてあるだろう。ところがまだ先がある。そこでさらに日本がその第二ハル・ノートさえも受諾したらどうするべきか-ということが話し合われた。そこで陸軍長官だったヘンリー・スチムソンはこのように言ったという。 「それならもうこちらから戦争を開始しましょう」

 これが私にとっての決定的瞬間だった。まったく個人的な問題であるし、人それぞれ感じ方は違うと思うが、この一言で一気に歴史観や社会観がひっくり返ったように感じられた。大東亜戦争、太平洋戦争とはアメリカ側から一方的に仕掛けられた戦争だったのである。考えてみれば明治維新以降、日本は防戦に次ぐ防戦の連続だった。ところが地政学やその他いろいろな条件によって、そのように見えないところがある。それをうまくプロパガンダに利用されてしまっているのである。日本はアジアをそして世界全体を白人の植民地主義から解放したのに、その日本が侵略者のように扱われるというのは、理不尽と言うものをはるかに通り越している。そして、それを同じ日本人が主張するというのは、絶対に許されるものではないと考えるのである。

 この決定的瞬間について少し説明させてもらうと、このスチムソンの発言は際立って特別だった訳ではない。だから、これは全く個人的な感じ方の問題なのだが、例えていうとそれはこのようなものである。インターネットや書籍の情報によって戦後レジームの理解が進んでいき、それはちょうどオセロゲームとドミノ倒しが合わさったような状態になっていた。オセロゲームの石が戦後レジーム側を黒とし、脱戦後レジーム側を白とすれば、黒がすぐに白にひっくり返るというより、ちょうど立ったような中間の状態になっていて、それがドミノ倒しの石のように配置されていたようなものである。それぞれの石は互いに有機的に関連しあっていて、 1つが倒れると隣が倒れるというような関係になっている。昔、テレビ番組で数万個のドミノを倒していく番組があった。扇状に配置されていると一気に大量のドミノが倒れるのである。このスチムソンの発言はこのドミノ倒しの最初の1枚になった、という感じである。テレビ番組のドミノ倒しは数百秒の時間をかけて倒れていくが、私の脳内に起こったこのドミノ倒しは瞬間的、ほんの1、 2秒で全てのドミノが倒れたという感覚である。この時、私は自分が全く別の人間になってしまったかのような感覚を持った。今までの人生でほとんどない経験だったのである。洗脳が解けた、といえばその通りなのだが、それ以上に膨大な歴史的事象の有機的理解が進んだということである。

 このハミルトン・フィッシュ「ルーズベルトの開戦責任」の原著がアメリカで出版されたのは1976年である。そして日本で翻訳出版されたのは2014年のことである。なんなんだこのタイムラグは、と思わずにはいられない。そして、このような重要な著作をマスメディアはほとんど取り上げることはないのである。これは完全に意図的なものである事は他のところでも述べてきたとおりである。このような情報を知ることで、本当に戦争を回避するための方策は何であったかを知ることができる。ハル・ノートはルーズベルト政権内の極秘のものであり、アメリカ議会もアメリカ国民も全く知らなかったことである。このような重要な事を議会に知らせず行ったことは合衆国憲法違反であると言う学者もいる。 ハミルトン・フィッシュは ルーズベルトに完全に騙されていたと述懐している。日本側とすれば、このようなアメリカ内部の状況を詳しく知り分析することにより、アメリカ議会に働きかけるという手段も考えられただろう。当時の日本のインテリジェンスの状況ではとても期待できないことであるが、まだ戦争回避の可能性はあったかもしれない。このインテリジェンスの弱さは現在でもあまり変わらないように思われる。そして、これらのインテリジェンスの弱体化を推し進めているようなマスメディアは、戦争反対と言いつつ、むしろ戦争を生じさせるような社会状況を狙っているのである。

真珠湾攻撃から78年-戦後レジームへの目覚め


 もうすぐ12月8日がやってくる。今から78年前、日本が真珠湾を攻撃し、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった日である。

 1941年11月23日、現在の北方領土、北海道択捉島単冠湾、何の変哲もない北海の島は1度だけ歴史の舞台に登場する。この日島民たちは度肝を抜かれた。見たことも無い巨大な軍艦が数十隻、湾内を埋め尽くしていたからである。大きな軍艦の中には大砲がなく上部が平らな船もあった。海軍の命令により、島は一切の船舶の出入りが禁止された。島内にあった唯一の郵便局は通信業務を停止させられた。 11月26日早朝、湾内は深い霧に包まれていた。そしてその霧が晴れた時、大艦隊は忽然と姿を消していたのである。島民は夢を見ていたかのような感覚を持っただろう。択捉島は真珠湾攻撃に向かう連合艦隊が極秘に集結する地点だった。

 真珠湾奇襲攻撃は成功したとみなされている。その当時日本も当然そのように思っていただろう。しかし、それすらもルーズベルト、さらにはスターリンの手のひらの上であったことを知る由もなかったのである。私の子供の頃から聞かされた戦争の話は、日本が宣戦布告前に真珠湾を攻撃し、アメリカの怒りを買いその反撃によって戦争に負けたということである。アジアを侵略したのは日本であり、アメリカがそれを解放したのだ-という話だった。

 だが終戦から2、30年後の頃はまだ客観的に戦争の事実を表現できたように感じられた。私の母方の祖父は戦時中に召集され、フィリピンに行く途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃により輸送船が撃沈され、何日も漂流した後やっとのことでフィリピンにたどり着いた。しかしその後も戦闘が続き、 九死に一生を得て終戦後帰国することができた。子供の頃は何度もその祖父から戦争の話を聞かされたものである。戦争は悲惨だ。戦争してはいけない-当然このようなことが繰り返しいわれるわけだが、なぜそのようなことに至ったのかという理由を考えなければならないはずである。しかし、どうもそのような理由を追求するという姿勢が周りの大人達に欠けているのではないか、と子供心に感じたものである。

 わたしは読書好きで様々な本を読んでいたが、その中に太平洋戦争関係の本も何冊かあった。戦艦大和の話や広島長崎の原爆投下などの本も読んだことがある。しかし、決定的だったのはテレビのアニメーション番組「決断」だった。アニメーション番組といってもかなり史実に忠実であり、ドキュメンタリーといってもよい番組だった。そのためアニメーションとドキュメンタリーをかけ合わせた「アニメンタリー」などとも呼ばれていた。これは太平洋戦争全体の真珠湾攻撃から終戦までの通史として、重要なポイントを取り上げて現場の指揮官などの決断をテーマにしたものである。決して戦争を美化するといったものではなく、戦争を客観的に捉えようとした番組だったと思う。案の定、左翼からの強い抗議があったらしく、その番組は二度と再放送される事はなかった。実に惜しい話で、このような番組が繰り返し再放送されていたら日本もかなり変わったものになっただろう。戦争を知り、戦争を考えるから戦争が起きるのだという異常な左翼論理がここでも見て取れる。

 その「決断」の中で決定的に重要だったのは「ミッドウェー海戦」だった。戦争の大転換点となった戦いである。日本海軍は一度に空母4隻を失うという大敗北を喫した。このことに衝撃を受けた私は関連の本をかなり読み漁ったものである。この当時は戦後の研究がかなりまとまった時期になっていて、一般向けのかなり詳しい戦史本が出版されていたのである。それからおそらく1,980年代前半くらいまでの時期は大東亜戦争、太平洋戦争を客観的に捉えようとする傾向は残っていたのである。もちろん、自虐史観の刷り込みも続いていたのだが、戦前から戦中を生きた人がまだまだ社会の中枢にいたことが大きかったのだろう。しかし、その後に団塊の世代が社会の中心になるにつれ、そのような客観性は急速に消えていったように思われる。それに入れ替わるように自虐史観の新たな捏造が生み出されていったのではないだろうか。靖国神社参拝への批判、すでに解決されていたA級戦犯なる用語が繰り返し新聞に登場した。南京大虐殺、慰安婦問題などが繰り返しマスメディアで報じられ始めたのである。(A級戦犯がすでに解決されていたものであることを知ったのも最近のことである)

 すなわち、団塊の世代こそ戦後レジームを担う中心的な世代である。この世代が社会の中核を形成する時、戦後レジームは最盛期を迎えたのである。そこでは自虐史観の様々な捏造、偏向した報道、そして都合の悪い事実は報道しない、隠蔽されるといったことが数限りなく起こっていたのである。もちろん、この勢力は団塊の世代だけでなくその前後に広がっているわけであるが、やはり団塊の世代が最も中心になるであろう。 (もちろん、例外となる人もいる)しかし、情報の隠蔽というものはGHQ占領下から連綿と続いているものであるし、またそこには様々な限界もある。 80年代に読んだ保守よりの本にしても、戦争の原因を軍部の暴走によるものである、としたものが多い。そのような中で、私自身はこのような問題にあまり関わらなくなった。他に興味のあることが多くあったということもあるし、何よりも自虐史観の様々な出来事に嫌気がさしてきたということもある。だが、 NHKなどの報道機関が繰り返し流す太平洋戦争関係の番組に相当程度、洗脳されていたことは間違いない。なにしろ、それを相対化するような反対の事実なり歴史観は全く存在しなかったのである。また、存在していたとしても全く周りに届かない小さな声でしかなかっただろう。

 そのような中で社会に大きな変化が起こり始めた。インターネットの登場である。戦後レジーム勢力、すなわち反日左翼を中心とした勢力はこのインターネットによって、さらに自分たちの目的が達成されるべく前進できるだろうと考えていたようである。ところが、現実はその正反対の方向に動くことになった。戦後レジーム勢力の最大の成功となった民主党政権の誕生は同時に中国の強烈な反日活動に連動して、悪夢のような民主党政権時代とみなされ、日本国民の覚醒の発火点となったのである。私自身、それからしばらくして戦後レジームに目覚める決定的な瞬間が訪れることになった。それを次回に書いてみたいと思う。 (次回に続く)


ブログ再開についてと 「桜を見る会」問題


 しばらくブログを休止していましたが、 徐々に再開していこうと思います。体調不良は相変わらずですが、ブログの方針を変更することにより、続けて行けるかもしれません。今まで比較的長い論文調の記事を書いてきましたが、このような記事を書く集中力が保てなくなってきました。これからは短い単発的な記事を不定期に書いていこうと思います。一般的なブログの書き方だと言えますが・・・ したがって今まで書いていた「中国の本質とは何か」は終了とし、これからは関連する記事を単発的に書く程度にとどめます。

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「桜を見る会」問題と憲法改正

 「桜を見る会」問題が取り沙汰されているが、このことについて 一言言及したいと思う。すでに多くのところで取り上げられているので、改めて述べる必要はないと思うが、このようなことを必死に追及する左翼野党とマスコミは狙いは何かということである。もちろん、それは国会運営の妨害であり、その中心にあるのは憲法改正である。その準備としての国民投票法改正の審議をさせないことにより、廃案に持ち込むことである。

 ある反日左翼の弁護士がこのようなことを言っていた。

 「我々は憲法改正すること自体に反対なのではない。憲法を改正することは賛成である。ただし、それは 天皇皇室の完全な廃止、自衛隊のみならず完全な戦力の不保持を明示した憲法でなければならない。現在のところ、そのような憲法に改正することはとても不可能である。そのため次善策として現在の憲法を一言一句変えることのないようあらゆる手段を講じてきた。そして、それは今まで成功を収めてきた。これからもそうであらねばならない」

 つまり、左翼野党、マスコミ、反日勢力は確信犯的にこのような取るに足らない小さな問題を大げさに騒ぎ立てることにより、憲法改正をなんとしてでも阻止したいのである。中国や北朝鮮、そして韓国さえも危険な状態になりつつあるこの時に、 このような活動をさらに強化するということは、これらの人々は完全に日本の敵である。すなわち外患罪の対象にしなければならないということである。

 それと同時に、自民党が単独あるいは少数の野党と共に強行採決することに国民の支持が得られなければならない、 ということになる 。保守系の人々からすれば強行採決しないことに歯がゆい思いがあるが、自民党からすればそれをすれば当然マスコミから攻撃される。それを真に受ける人々が多数いれば選挙に影響が出てくることは間違いない。 つまり、このような反日勢力の意図を国民の大半が理解し、自民党の強行採決をむしろそれをしなければ支持しない、というくらいにならなければならない。これは極めてハードルの高い問題である。

 今のテレビ番組を見ると、ますますこのような重要な政治問題から目をそらさせるようなお笑い番組やグルメ番組などが増えてきたようだ。インターネットによってどれだけこの状況を変えることができるか、という勝負になってきたのだろう。


ブログ一時休止のお知らせ

 9月に入ってからの体調不良のため、 ブログを一時休止することにします。「 中国の本質とは何か」の続編をアップする予定でしたが、しばらく先になるか、あるいはこれで終了かもしれません。まさに戦後レジームの垢が噴出している現在は時代の転換点と言えるのでしょう。私としても言いたいことはまだまだ色々あるのですが、あまり無理はできないのでしばらく休止しようと思います。

中国の本質とは何か (第3回)・・・恐るべき闘争世界


(前回の続き)

 中国の歴史というと大体は皇帝とその王朝の歴史を扱っている。それはもちろん重要なことであるのだが、どうしても一般民衆はどのようなものであるのか、ということが今ひとつ分からなかった。それは現代でもそうである。中国共産党による一党独裁により、一般民衆は抑圧され、搾取されている。歴史的に民主主義があった事は1度もないし、現代では専制政治はさらに強まっているとさえいえる。 1989年の天安門における民主化運動を壊滅させた弾圧事件は、30年経った今再び取り上げられているが、それではあの時もし、民主化が進んでいたとしたら中国はどうなっていたのだろうか?このような問題を取り上げるとき、どうしても一般民衆がどのようなものであるのか分からないと考える事はできないだろう。左翼思想の流入により、われわれは知らず知らずのうちに支配し抑圧する側は悪であり、抑圧されている弱い立場の民衆は善であるかのような洗脳がなされてきた。中国の場合も共産党に抑圧されている民衆の側は弱い立場であり、善であるかのような感覚を持ってしまわないだろうか。

 ここでは中国における一般的に本当に信頼しあえる人間関係がどのようなものであるのか-ということに焦点をあて、その人間関係のグループなり組織がどのような性格を持つのか、ということを問題にしていきたい。すなわち親族や宗族、それに準ずる共通利益集団の性格である。今まで一族イズムの性格を検討してきたが、この特異性を端的に表している現象が宗族の伝統となっている「械闘」なのだと石平氏は述べている。械闘とは民間の社会集団が別の社会集団との間で利害の衝突やその他の対立が生じた場合、それを法的手段によって解決するのではなく、武器を用いた武力闘争によって決着をつけることである。械闘はほとんど宗族上で行われているから「宗族械闘」とも呼ばれる。

 その典型的なパターンは、次のようなものである。どこかの宗族と隣接する宗族との間で土地や墓地をめぐる紛争が起きる。あるいは何かの偶発的な事件がきっかけで紛争が起きる。その際に、一族の人々を動員して集団的戦闘態勢を整えた上で、その隣接する宗族の村々を襲ったり、隣接する宗族と殺し合いの合戦を展開したりするのである。

 その際、本来は農民である宗族の戦闘集団が武器として主に使うのは正規の兵器ではなく、日常の農作業に使われる鍬や鋤や鎌や天秤棒などの農業器械である。だから、彼らの行う戦闘行為は「械闘」と呼ばれるのである。

 もちろん農業器械を使った械闘であっても、鍬や鋤や鎌や天秤棒などは使い方によって立派な殺人道具にはなるし、械闘が多発するような地域では、一 部の宗族は本気になって武装化するから、刀剣や鉄砲などの本物の兵器を械闘に用いることもある。その結果、宗族械闘はほとんど例外なく本物の殺し合いとなって多くの死傷者を出すのである。

 時には、戦闘員間の殺し合いだけでなく、戦闘に勝った宗族が相手の宗族の非戦闘員に対する虐殺を行うこともあるから、宗族械闘は残酷なものである。

(石平 著「中国人の善と悪はなぜ逆さまか」98、99頁)

 中国では数千年来にわたり、このような小国家ともいうべき宗族が無数に存在し、一族イズムに基づいて行動している。そして宗族間には紛争が絶えず生じているが、その解決のために国家は役に立たない。その時の王朝が治安を維持しようとしても、それだけの力はなく、また宗族も国の治安維持機構や法律を一切頼らないのである。宗族間で解決のための話し合いが行われることもあるが、それが決裂すると械闘になるのである。しかも、戦時国際法のように宗族間で一定のルールがあるのである。例えば戦闘は宗族で組織された集団の間で行い、個人では行わない。戦闘が終わって怪我人が病院に収容されても、その病院では戦闘は行わない。この械闘は第三者が見物することも可能で、 白いシャツを着て傘を脇の下に挟んでおくと第三者であることの標識となり、襲われることがないというのである。

 宗族間での対立は非常に長期にわたる場合もある。例えば宗族Aと宗族Bは数百年間対立し、しばしば械闘を起こしている。最初の対立の原因が何だったのかはもう忘れ去られてしまっているが、その対立関係だけは残る。そして、ささいなことをきっかけに対立が激化し、話し合いもむなしく開戦になるのである。宗族Aは宗族Bの中心になっている村を襲おうとするが、防備が固くその周辺にある同じ宗族Bの村を急襲し、老人や婦女子を虐殺する。宗族Bはその報復に武器を調達し、あらかじめ官憲に賄賂を渡し見て見ぬふりをするようにしておく。そして宗族Bは宗族Aを襲い数百人を虐殺する。生き残った人はその土地から逃げ、別の場所で生活するのである。数百人規模の死傷者というのはそれほど多いわけではないようであるが、少数の死傷者の械闘というのはかなり頻繁に起こっているようである。そして驚くべきことに、この械闘は現代でも続いているのである。

 その宗族で一旦、械闘を起こすと決められると不参加は許されない。それに参加することは族人の青壮年の当然なる義務になるのである。参加を拒むと宗族全体から非難を浴び、処罰や経済制裁を受けることになる。参加しなければならない年齢制限は宗族によって異なる。大半の族人達は自分達は一体何のために械闘をやらなければならないのかよく分かっていないが、別にわかろうともしない。械闘に参加すると宗族から手当が支給され、その期間中はただで飲み食いすることができる。気分的には一種のお祭り状態である。殺し合いをお祭り気分でするとしたら、日本人の常識的感覚をはるかに超えているだろう。械闘中に死者が出た場合、戦闘終了後にその遺骸は丁重に回収され、盛大なお葬式が執り行われる。戦死者の遺族には見舞金が支払われ、未成人の子弟は宗族によって扶養されることになる。負傷者の医療費は宗族によって負担され、負傷者は仕事に戻れるまで生活費は宗族から支給される。これら財源は宗族内の各家族の共同負担となり、各家族は経済力に応じて分担金を徴収される。分担金を上納することを拒否することは許されないのである。

 日本人の常識からすれば、このような戦闘が起これば当然警察が駆けつける。警察は何をやっているのか、と思われるだろう。ところがこの時、戦った宗族同士が団結して警察の捜査を妨害するのである。つまり、お互いに戦闘など起こっていない、相手からの攻撃で負傷者が出ているわけではない、と警察に主張するのである。特に主導的な役割を果たしたボスや幹部を守る事は重要である。そのため宗族は械闘立案、実行の真相を隠蔽し、ときには幹部の身代わりになって、一般の族人を本人の同意を得て首謀者に仕立て上げるのである。つまり、警察-国家機構を相手にしないというのは宗族全体の共通認識なのである。

 とにかく宗族というのは実に身勝手なエゴイズム集団である。彼らの眼中にあるのは自分たちの宗族の利益だけであって、公共の秩序を守る意識も他の宗族の権利を尊重する意識もさらさらない。彼らにとっては、他所の宗族は単なる強奪の対象であり、潰すべき敵なのである。そして相手から何かを奪うためには血みどろの死闘も辞さない。内輪の中では譲り合いや助け合いを美徳とする宗族が、いったん外に向かうと、狼のような恐ろしい存在となるのである。(石平 著「中国人の善と悪はなぜ逆さまか」103頁)

 よく報道で、アフリカの部族抗争で多数の犠牲者が出て数万人単位の難民が生じたというニュースを聞くことがある。それと同じようなことが中国においては長い間、頻繁に起こっているということである。しかし、マスメディアがこのような報道をしたり、テレビ番組で取り上げたりすることは全くなかったように思われる。もちろん、これは中国共産党に忖度したものであるだろう。

 これまでの考察から、中国にもし民主主義が導入されたらどうなるか、という問題をある程度検討することができるように思われる。アメリカ人は民主主義を導入しようとするとき、その場所に投票箱を持ち込めば簡単にできるように考えていると、批判されることがある。 まさに中国の場合はこれが当てはまるだろう。

 中国に欧米や日本のような議会制民主主義が導入されたと仮定してみよう。ある地区ごとに一定の議員を選挙によって選出する。 例えば議員の定数を10人だとしよう。立候補者をどのように設定するかは大きな問題であるが、中国の場合はさらに特殊な事情が関わってくる。その地区に100の宗族が存在していたとする。それぞれの宗族は自分のところから議員を選出できなければ、選挙など無意味である。いや無意味などころか、対立する他の宗族から議員が選出されれば事態は悪化していく恐れもある。例えば、100の宗族から一人ずつ立候補者を出せたとする。そうなれば単純に考えて 有権者が多い・・・すなわち大規模な宗族から当選することになる。有権者が多いトップ10の宗族が有利になるのである。当選した議員はその地区全体の事よりも、自らの宗族の利益を優先して活動する。これは少数派の宗族が黙って受け入れられる事態ではない。

 さらに、当落線上の宗族では選挙管理委員会の買収合戦が起こるかもしれない 。つまり、賄賂によって票を操作してもらうのである。選挙管理委員は人気の職種になるかもしれない。好きなだけ賄賂がもらえるのである。こうして不正した、不正しないで宗族間の争いがまた勃発して、本当の械闘につながるかもしれない。収拾のつかない事態になるのは目に見えているように思うのである。投票箱を持ち込めば民主主義になるというのは全くの幻想に過ぎないのである。